存在しないもの
浅い穴に、猫の死体を横たえた。――庭の土は固く、夢幻の手と棒切れでは深く掘れない。
庭にあった広葉樹の葉を敷き詰め、上からもかけて、さらに土を盛る。盛り上がった土の上には、さらに石を置く。本当なら大きな石をおきたいのだが、小石を並べる程度のことしかできない。
花は相変わらず見つからない。
庭には寂しいままの小山が無数に並んでいる。置いたはずの小石は蹴られてどこかへ消え、時折野犬が中身さえも掘り返す。蟻が小さな穴を開け、列を作る。
それでも土へ返すことをやめようとは思わなかった。
「――夕暮れの空を抱いて、星のきらめきの中に眠れるものよ」
歌う。風が泣くより細い声で。
腹の底から歌うわけではない。うつむいたまま、ただ口に出す。
玄関のドアが重々しく開閉する音が聞こえてきた。まもなく、庭に白道が姿を現す。
酷い姿だった。
顔の腫れこそだいぶ引いたが、赤や青や紫の痣がくっきりと残っている。骨は折れていないとモズは言った。しかし白道は全身を引きずるようにして歩いている。
「おまえ、いつまでこんなことするつもりだ?」
「・・・・・・」
こんなこと、とは。――死せるものを土の中に眠らせるこれのことを言っているのだろうか。
「そんなことしなくても、こいつらちゃんと眠れるんだ」
「でも泣いてる気がする」
「泣いてない」
白道は、小山を一つ踏みつけた。
「泣いてない。こいつらは、こっから逃れられたんだ。なんで泣くんだよ。泣く理由なんてどこにもない。そんなこともわかんねぇのかよ」
「・・・しあわせ?」
「幸せ?――馬鹿か。そんなものどこにもねぇよ。存在しないものの例えだ」
兎の角。
魚の吐息。
くらげの骨。
「存在しない・・・・・・・」
ああ、でも。と白道は酷薄に笑った。
「苦しくないことが幸せだっていうんなら、そうかもな」
ずん、と胸が圧迫された。
彼の表情が意味するもの、彼が抱え続けるものが何なのか、理解ができたから。
「白道は、」
それに気づいたときから、息すらうまく吸えないほどに、――
「なんだよ」
苦しくて、苦しくて仕方がない。夢幻は今にも泣きそうだった。
――彼は、白道は、いつだって残酷なふりをしているのだ。
「白道は、くるしい?」
「――っ!」
ばちんっ、と音がした。
白道の念動だ。空気が鳴っただけだったようで、傷ついたものは無かった。
白道の表情は、一瞬にして怒りに変わっている。
「・・・・・・ここにそれ以外のもんがあるのか」
押し殺した声は、暗に近づくなと言っていた。
夢幻はこれがとても苦手だ。そもそも白道のことは、苦手だ。けれど、このとき彼女は逃げも、萎縮もしなかった。
白い頭に手を伸ばす。背伸びして、抱える。――実際は、夢幻が彼の肩に顔をうずめた形になったが。
「探してるの」
無音の瞬間を、吹いてきた風が埋めた。
風の音にまぎれて、夢幻の肩にぽたりとしずくが落ちた。
「死んだの?」
静かな問いかけに、返る声はない。そしてそれが答えだった。
花を見つけた帰り道に、死体を見つけた。
何度か会い、言葉を交わしたこともある、穴掘り屋〈モグラ〉の少年だった。
風がひゅうひゅうと音を立てていた。最初は、〈モグラ〉が泣いているのかと思った。
近づいてそっと触ってみたけれど、死んだものの固さをしていた。
土で汚れた衣服、真っ黒な爪先、無造作に転がったシャベル。
風が咽び泣いている。
〈楽園〉と翳街の間をすり抜け、廃墟と廃墟の間を吹き抜ける。それは一見自由なように思えるけれど、違うのかもしれない。通り過ぎたようにみえた風は、この街をぐるりとめぐり、戻ってきている可能性だってある。ここは完成された世界だから。
そうか、だから泣くのね。――夢幻は納得した。
死体を見つけたとき驚いて落としてしまった花を拾い上げた。強く握っていたせいか、すでに萎れているが、夢幻は気にしない。
「埋めなくちゃ」
来たときよりも少し急いで、夢幻は帰途をたどった。
家の門をくぐると、ピアノの音色が聞こえてくる。今日も短調。シンプルな音の重なりだが、強弱の効いた、切々と訴えかける恋のバラードだ。カミコは複雑な和音を多用する重々しく迫力ある曲を好むのだが、聴衆は愛や恋の曲を好む。だからカミコの練習レパートリーには本人の好みとは対極にある曲のほうが多い。
庭の死せる者たちに花を捧げる。と言っても、花をただ地面に置いただけ。捨てたのと見分けがつかない。萎れた小さな花束は、次に吹いてきた風でばらばらに庭を転がった。
ふと以前聞いた歌を思い出す。男が女に花束を差し出して愛を乞う。女の心の内には別の男が住んでいて、花を差し出す男はふられてしまう。後に残るのは花。萎れて解けてばらばらになり、風に吹かれて飛んでいった。
歌詞の最後のほうは無残な花の描写で、男と女のことには一切触れない。それが不思議だった。男女のことを言っていたのに、花のことにすり替わってしまうなんて。
夢幻は家に入り、ピアノの部屋のドアをノックした。ちゃんと曲が途切れた瞬間を狙った。そうしなければ、カミコは返事をしない。もっと踏み入って作曲や演奏の邪魔をしようものなら怒る。白道の癇癪なんてかわいいと思えるほどに、静かに暴力的に怒るのだ。夢幻は一度だけそれを目の当たりにした。影鳥が止めてくれなかったら死んでいたと思う。思い返せば、影鳥がわざわざ止めに入ったことのほうが驚きだが。
「なに?」
カミコが応える。カミコはピアノの邪魔をしない限り声を荒げず、忍耐強く夢幻に接する。けれど夢幻は、彼の態度に冷たさを感じる。艶やかな黒塗りのピアノはカミコと同じ温度だ。
「あのね、モグラが死んでたの」
「もぐら?」
「前、話した。穴掘りしてたの」
「ああ」
曲と演奏の日しか覚えていないと揶揄される彼でも、どうにか覚えていたようだ。
「死んだんだ。ふうん」
彼の表情は変わらなかった。
「土に、還したいの」
「ふうん」
「運べないの。モグラ、重いから」
「夢幻に運べないなら、僕にも運べないよ」
「・・・・・・でも」
「腕を痛めても嫌だし、爪が割れても嫌だしね。死体なんて、放っておけばそのうち葬儀屋が片付ける」
葬儀屋は、死体が身に着けていたものや持ち物を貰う代わりに、死体処理を請け負う。みすぼらしい金にならない死体でも、彼らはちゃんと片付ける。――食肉処理して売っているのではという噂もあるが。
真実がなんであれ、少年の死体があの場で腐って鴉たちに食われることにはならない。
カミコが立ち上がって、窓際に移動した。夢幻が首をかしげたその背後で、ドアが開く。
「カミコ、仕事行くときにモズに薬頼んどいて」
白道だった。珍しく上機嫌だ。カミコに対して喧嘩腰ではないし、頭痛で顔をしかめてもいない。
「自分で行ったらいいんじゃないか?」
カミコは出窓に置いてあった籠から林檎を一個とり、白道に向かって投げた。
「やるよ。だから、一仕事しておいで」
「は?」
「お人形さんが、死体処理を御所望だ」
白道はよくわかっていないようだったが、夢幻を呼んで部屋を後にした。