落ちた天使と天使の奇跡
帰り道、喧嘩に遭遇した。
翳りの街で、それは珍しい光景ではない。とくにモノ地区と呼ばれる場所は、〈狩人〉たちが多く集う。〈狩人〉とは楽園で天使をここへと突き落として〈籍〉を奪う、言ってしまえば強盗だ。どうしても血の気の多い人々が集まる。
カミコが言うに、影鳥が生きている限りその保護下にある自分たちがそれに巻き込まれることはなかなかない、とのことだった。
だから夢幻は驚いた。
喧嘩の中心で殴られているのは、真っ白に髪を染めた少年だったから。
「――白道!」
叫んで走る。
少年たちの一団が振り返る。年のいっているもので二十歳程度だろう。下は十歳程度のものから、六人。一様に目つきが鋭い。
いっせいに振り向く少年たちに、夢幻は気圧されて立ち止まった。
白道はぐったりとして、微動だにしない。
「・・・天使か」
「影鳥のところの、新しい天使だろう。〈神の人形〉だ」
年長の者たちがそんな言葉を交わす。
「気にするな、何もできない」
実際何もできなかった。
白道がうっすら目をあけたときも、彼の唇が確かに「逃げろ」と言ったときも、――そしてその言葉が夢幻にではなく、白道を取り囲む少年たちへ向けられたものだと気づいたときも。
とん、と肩に手を置かれた。振り返るよりも先に、両目をふさがれた。
「それは俺の持ち物だ。俺のもんに手ぇ出すたぁ、しつけがなってねぇな、クソガキども」
それは、聞いたとたん目の前が闇に包まれる気がする声。それを傍らの闇に似ていると評するのは悠江だ。他の人間が言ったのならば激怒するに違いない内容でも、悠江が言えば「彼」は無言で容認する。
場は一瞬にして、その声の主に支配されていた。
声の主、――つまり、影鳥に。
「それとも俺様にしつけられたいか?」
「こ、・・・これは違う!白道が・・・!」
少年のあせった声が聞こえる。――当然と言えた。相手は影主。この翳りの街でもっとも幅をきかせる男だ。
夢幻の目をふさぐのは、この男ではない。女の細い手だった。何もしゃべらないが、おそらく悠江だろう。影鳥の相棒である彼女は、常に影鳥の半歩後ろに寄り添っている。
「白道。――邪魔をするな。するなら殺す」
影鳥が触れれば切れそうなほど鋭い言葉を投げた。彼に助けに入ったつもりは、ないのだろう。所有物を他人に壊されるのが嫌なだけなのだ。
すると、夢幻の頭上からくすくすと笑う女声が聞こえてきた。思ったとおり、夢幻の目をふさぐ女は悠江だった。
「さあクソガキども。懐にある神様の食べ物をここに置いて、さっさと行っちまいな。じゃねぇと、魔女の呪いで死んじゃうよ?」
実に愉快そうである。翳りの街における恐怖の代名詞の男ですら鼻で笑ってあしらえる彼女にとって、喧嘩など緊張に値しないようだ。
何かが地面に投げ出される音、続いて複数の足音が遠ざかっていく。
そこで初めて、目隠しがはずされた。
「やれやれ、陰惨な光景にならなくてよかった」
悠江がのんびりと言う。
視線の先には影鳥と、ぐったりと壁に背を預けている白道。のんびりと何か言えるような雰囲気はどこにもなかった。
「何をしてやがる、白道」
影鳥が、白道が寄りかかる壁を蹴る。白道は微動だにせず、反抗的な色を宿して影鳥を睨んだ。
「別に」
鼻で笑う白道を見た次の瞬間、夢幻の目は再びふさがれた。耳が骨同士ぶつかる音を伝えてくる。それだけあれば何が起こったのか想像は容易で、夢幻は悲鳴をあげた。
「こんの阿呆!夢幻の前でなにしやがる、考えなし!」
綺麗な声で、汚い罵声を並べる悠江。それに対して、影鳥は端的に返す。
「先に帰れ」
「ああわかったよ!帰るけど、白道殺すなよ。ちゃんと持って帰れ」
「面倒」
「めんどー、じゃねぇよまったく」
目隠しを解かれて、すぐに手を引かれた。だから、血を流している白道を一瞬確認したきりだ。
「悠江・・・、白道は、」
「だいじょーぶ、殺されたりはない、と思うよ。大事な天使だもんねぇ」
悠江はけらけら笑う。悠江という人物は、何があってもとりあえず笑って鷹揚に構えていた。何の根拠もなく。
「白道、・・・どうしたの」
「気にすることはないよ。落ちた天使の病気さ」
「病気?」
「この街は病に侵されてるんだって。その最たるものは、落ちた天使と、それを求めるヒトだって。――だれが言い出したんだろうねぇ」
悠江の目に、ほんの一瞬だけ凶暴な色が灯る。
だがそれは本当に一瞬だけで、すぐに消え去った。残るのは、締りのない腑抜けた顔だ。
「悠江、これからどうするの?」
白道をどうするのか、影鳥にどう対応するのかという意味で聞いたのだが、悠江は少し笑って答えた。とても、のんびりと、そして楽しそうに。
「帰って酒飲んで寝るよ」
白道が帰ってきたのは日が沈む頃だった。血まみれの彼を、影鳥が抱えて帰ってきたのだ。顔が腫れ上がり、体中にあざを作った白道は、無造作にソファに投げ落とされた。
ピアノを弾いていたカミコは、夢幻の悲鳴を聞いてやってきた。いつも少々のことでは練習を止めないのだが、この時ばかりは事の重大さを肌で感じ取ったらしい。
へらへらと酒を飲んで上機嫌だった悠江も、顔色を変えた。つかつかと影鳥に迫ったかと思うと、平手で彼の頬を打った。耳に痛い音が、暗い家の中に響き渡った。夢幻はその音に怯えたが、カミコは「CとBの間、B寄りかな」とぼそりと言った。この瞬間にはまったく役に立たない絶対音感である。
「てめぇだけは、ほんっとに意味がわかんねぇ!殺す気か!」
金切り声で怒鳴る悠江に、影鳥は頬を押さえ、不満そうに反論した。
「生きてる」
「そうだな、じゃあモズ呼んで来い。ほっといたら死ぬから」
影鳥は無言で目をそらした。論破されたというよりも、問答が面倒になった様子だ。それを見て取った悠江は彼を外へ蹴りだした。
「行って来い」
このやり取りのあいだ、カミコは現実的な問題と対峙していた。――白道の汚れた傷口をぬれた布で清め、包帯を巻く。
「白道、聞こえる?」
「・・・・・・きこえる」
「とりあえず適当に処置してるから。あとはモズにやってもらって」
「・・・手、貸して」
「手?」
「当ててるだけでいい」
「僕に癒しの奇跡なんてないよ。――悠江」
カミコが、苛立ってビンを床に投げつけている悠江を静かな口調のまま呼んだ。
「なんだ」
「痛みを和らげるくらい、できるんじゃないの?」
「・・・出来ないねぇ」
――カミコは落ちた天使でありながら、なんの奇跡の力も持たない。悠江はかつて痛みを和らげ傷の回復をうながす奇跡を使ったというが、失った。
悠江が首を横に振りながらも白道の横たわるソファの傍らに膝をついた。そして、白道の頬に手を当てる。
「だけど手当て、って言うもんね。気休めくらいにはなるかも」
白道は薄目を開けていたが、小さく嘆息してまぶたを下ろした。
白道が眠ったのかどうかはわからなかったが、カミコと悠江は安心した様子だった。おろおろする夢幻に気づく余裕さえ出来たようで、カミコは夢幻に座るようにと促した。
「・・・白道、平気?」
「白道は念動で護れるからね。それを突き破ってここまでできる影鳥は相当だと思うけど・・・まぁ、死にはしないよ。回復力もあるし」
「ふうん・・・・・・」
とりあえずうなずいた夢幻に、悠江が笑う。
「白道は癒しの奇跡も持ってるのかねぇ。才能豊かでうらやましいこった」
「僕とは大違いだ」
「カミコは魔法の指があるだろ。それが奇跡だよ」
「まさか。あれが魔法なわけがない」
「・・・そうかもね」
悠江は肩をすくめた。
モズがやってきたのはそれから間もなくだ。彼を呼びに言ったはずの影鳥は、帰ってこなかった。悠江もカミコも、そのことをまったく気にしない。夢幻がモズに尋ねると、へらりと笑われた。――怪しいとも、胡散臭いとも言う。
「都合が悪くなるとすぐ逃げるやつなんだよねぇ」
モズが言うと、悠江がうなずく。
「ガキなんだよ。頭ん中身成長してないの」
「悪知恵はよぉく働くんだけどねぇ」
昔なじみである彼らは、今の状況も無視して影鳥のことを話題に盛り上がる。
カミコはそれを遠くから見て、やがてその場を去っていった。去ってすぐにピアノの音が聞こえてくる。カミコはどこまでもカミコだった。
「モズ」
「なんだい、お人形さん」
モズは夢幻を見下ろして、感情の読み取りづらい笑みを作る。
「白道、死にそう」
早く治療してくれなければ。
「死なんさ」
「・・・わかるの?」
「わかるよ。私、死神とトモダチだかんね」
「・・・・・・」
「馬鹿と死にそうな人間ばっかり相手にしてるんだもん。死神が傍に来ているかどうかなんてすぐわかる」
実際のところ、彼は医者なんかじゃないと言ったのは、悠江だ。薬も道具もそろわないこの街でできることなどたがか知れている。求められるのは痛みを誤魔化す薬、楽に死なせる薬。麻薬や毒と紙一重の粗悪品しか手に入らないという。
「お湯沸かしておいて。それから、どっかで氷が手に入るといいんだけどねぇ・・・・・・無理かな。いいや、とりあえず白くんの部屋はどこだっけ?そっちに放り込んで、様子見だぁ」
ほらそこ。と悠江は居間から続く地下室への入り口を指差した。
「安心しろ。カミコや影鳥のと違って、きれいな部屋だよ。足ぶつけるもんなんてないから、おまえ、運んでやって」
悠江がきれいな顔で笑う。わざとらしく媚びる彼女の額を、モズは指ではじいた。
「色気が足りてねぇよ、魔女さん。ひとのことコキ使おうってんなら、もうちょいサービスしな」
「じゃ、出世払い」
悠江はけらけらと笑って応えた。




