d-moll
美しいテノールが歌う。
――いつか、カミコがピアノで弾いた曲だった。
もともと歌詞はなく、意味のない言葉だけでメロディーが紡がれてゆく。
声の主は、白道だ。
白い髪が、薄暗くなり始めた部屋の中で浮かび上がる。他に何かをする様子はなく、ソファに腰掛けて窓の外を見ながら歌っていた。
「――白道」
呼びかけると、歌が止んだ。
夢幻は少し後悔する。ちゃんと歌が終わるのを待てばよかった。そうすれば、美しいテノールを聞いていられたのに。
「なんだ、どこ行ってたんだよ」
「花があるところ、知らない?」
「花?――さあな。道端で、時々見ることはあるけど」
「見つからなかった」
「影鳥か悠江に聞けよ。仮にも、影主とその相棒なんだから」
「・・・うん」
会話が絶え、白道が姿勢を楽なものへと変えた。
そのときだった。
ドアの向こうから、強制的に立ち止まらせ耳の奥へ叩き込む、強烈な音が鳴り響いた。
酷く乱暴でありながら、それは繊細なピアノの高音なのだ。流れるメロディーは、小鳥のさえずりに似た軽やかな長調。
耳に入ったら最後、聞かずにはいられない。誰もが足を止めて聞き入る魔法を宿した音。たった一音であっても、人の心を捉える。
これを奏でるのが、カミコだった。
けれども夢幻は聞き入る前に、不安に囚われた。焦って白道を見れば、彼は酷く顔をゆがめて歯を食いしばっている。
次の瞬間、――テーブルの上に置かれたグラスが割れた。続いて、窓際にあった木の置物が、ぱぁんっとどこかへ弾かれる。
「白道!」
止めようとして彼に駆け寄ったが、手を振り払われた。
「黙れ!――うるさい!」
テーブルを蹴飛ばし、手に当たるものを全て薙ぎ払い、白道は部屋を出て行った。行く先は、音が届きにくい地下室だ。
白道が地下室へ去っても、止まなかった。
曲はいつの間にか短調に代わっていて、時に不協和音の混じる激しい展開を見せていた。
夢幻はか細いため息をついて、先ほどまで白道がいたソファにひざを抱えて座った。
カミコのピアノは、魔法に満ちている。
どんなにおとなしい音でも小さな音でも、カミコが弾けばみんな注目する。そして、誰もがその演奏を賞賛するのだ。
けれど白道だけは違った。カミコのピアノを嫌い、時によってはさっきのように物に当り散らす。たちの悪いことに、手を使うことなく、意思だけで物を壊す。――落ちた天使特有の、能力だった。
いつの間にかピアノの音は途絶え、部屋は真っ暗になっていた。
廊下と続いているドアが開く音に顔を上げると、暗闇の中に溶け込みそうな色を纏って、カミコが入ってくるのが見えた。
「白道がまた暴れてたみたいだね」
特に気になる事柄ではないらしく、そっけなくカミコは言った。確かめるまでもなく、いい耳の持ち主である彼には白道が暴れていた音など聞こえているはずだ。
床に転がった蜀台を蹴ってしまって、カミコは顔をしかめる。
「夕方に弾くのはやめようか。これじゃ不便だよ」
彼は蜀台を拾い上げてもとの位置に戻し、手探りでろうそくを取り出した。そして、マッチで火をつける。
ささやかな明かりが、部屋を照らし、同時に大きな影を作った。
「ねぇ、カミコ」
「なに?」
キッチンから硬くなったパンが入ったかごごと持ってきて、カミコは夢幻の隣に座る。水差しからグラスに水を移し、口をつける。――白道が割ったグラスには目もくれない。カミコの目には自分が必要なものしか映らないらしい。
「モグラって、なにをしてるの?」
「穴を掘ってるよ」
「どうして」
「日の光が嫌いなんだよ。この街は、〈楽園〉の陰になってるからあんまり日は当たらないけど、外はそうじゃないから。穴を掘らなくても平気だからって、わざわざこの街に入って来るモグラも多いらしいけどね。――だけど、どうして?」
「モグラに会ったよ」
「本人がそう名乗ったの?」
「うん」
「そりゃあ珍しい」
カミコは特に表情を変えずにそう言い、しばらく黙った。――パンを嚥下するまで、彼はしゃべらなかった。
「めずらしい?」
「・・・モグラは自分のことをそうだとは名乗らないのが普通だよ。あんまり自分たちの所属を誇らないから」
「ふうん?」
そう言いながら、夢幻は首をかしげた。
カミコはやはり表情を変えず――あまり興味なさそうに――、たずねた。
「そのモグラと、なにか話したの?」
夢幻は首を左右に振った。
「ほとんどモグラがしゃべってた」
「なんて?」
「街の端を掘っていて、そこから外に出るんだって」
「ああ・・・」
カミコは一人、合点したらしい。実にくだらなさそうにうなずいた。
そして。
「もう近づかないほうがいいよ。それ、この街の病気だから」
グラスに残った水を飲み干すと、さっさと席を立った。
間もなく、再びピアノが聞こえてくる。
夢幻は風が咽び泣くような音の連なりを聞きながら、一人で乾いたパンを食べた。
「あなた、病気なの?」
二度目にモグラ〈穴掘り屋〉の少年に会ったとき、夢幻は素直にその質問を口にした。
モグラは相変わらず袋小路で穴を掘っている。土の山は定期的にどこかへ運ぶらしく、大きくなっていない。だが穴は深く大きくなっていた。
「はぁ?」
モグラは手を止めて顔をゆがめて問い返した。
「なんだよ、病気って」
「カミコが言った」
「音楽の天使が?そいつこそ病気なんじゃねぇの?」
夢幻はかぶりをふる。
「カミコは病気じゃない、と思う」
白道ならばカミコのことを病気だと断言しただろうが、そんなことまで言う必要はないだろう。
夢幻が黙っていると、モグラはシャベルを投げ出して地べたに足を投げ出して座った。顔も服もすでに泥だらけであるためか、土の上に座ることに抵抗はないようだった。
「あんたさ、何してるんだよ。こんなところ来て。女が一人で歩き回るような場所じゃねぇぞ」
「・・・花を探してる」
「花?なにするんだよ」
「ささげるの」
夢幻が言うと、モグラは顔をしかめた。言葉の意味を探るように。
「・・・誰に、捧げるんだ」
「死したものに」
今度は、モグラは驚いた顔をする。
「なんで?」
「・・・・・・泣いている気がしたから」
「花があれば、泣かないのか?」
「わからないけれど、なんとなく」
夢幻はうつむく。
行動の意味を深く問われると、言葉を見つけられなくなる。夢幻の語彙はとても少ない。
モグラは土だらけの手で頭を掻いた。
「天使って、よくわかんねぇ生き物だな」
「わたしにも、よくわからない」
「ふうん」
その場に沈黙が降りた。
風だけはささやかに吹いて、遠くからかすかな音を運んでくる。それはこの街のなかで起こる喧嘩だったり、はるか頭上の楽園から落ちてくる音楽のかけらだったり、さまざまだ。
「・・・ねぇ」
「なんだよ」
「穴を掘って、どうするの?」
「・・・前も、言わなかったっけ?」
モグラは面倒くさそうにそう言った。面倒くさそうだったが、夢幻が肯定も否定もしないでいると、勝手にしゃべりだした。
「ここが街の端っこなんだよ。ここを破って、外に出る。それだけの話だ」
「それって、」
「ああ?」
「それって、終わりを作るって事?」
モグラはちょっと首をかしげた。そして、「たぶん、そういうこと」と言った。
「どうして、完成された世界を破るの?」
「・・・球体の中に閉じ込められた蟻がいて、その蟻は己の居る世界をどう受け止めると思う?」
夢幻は返答に詰まった。言葉が難しくて、うまく理解できなかった。モグラは構わず続けた。
「球体の中に目印はない。蟻は目印をつけるすべをも持たない。そんな球の内側をぐるぐるまわってみて世界は無限で永遠だと思うのか、それとも向こう側に世界があると思うのか。そういう話」
質問とは食い違った返答であるように思えたが、夢幻は何も言わないでおいた。
モグラは立ち上がり、シャベルをつかんだ。
「なんか、歌ってよ」
「歌?」
「音楽の天使と知り合いなんだろ?歌を知ってるんじゃないのか?俺は滅多に酒場にも行かないし、歌をよく知らないけど」
「ええっと・・・・・・」
歌はあまりよくわからないというのが、本音だった。
カミコが奏でるほとんどはピアノだ。彼作の歌曲はあっても二人以上でなければ歌えない代物か、恐ろしく難しいかのどちらかだ。時折悠江や白道がなにか口ずさむが、最初から最後まできっちりと聞けたためしがない。
夢幻は迷った挙句、か細いソプラノで簡素な曲を歌った。
曲名は知らない。歌詞もわからない。土臭い、洗練とは程遠いメロディーだ。
それはカミコが時折口ずさむ曲だった。
モグラの少年は壁に寄りかかり、手をシャベルにかけて、黙ってそれを聞いていた。
曲はとても短い。楽譜にすれば、八小節。四拍子のアンダンテ。カミコなら、いつもDの音から歌い始める。
「・・・なんて曲?」
「わからない」
モグラはその答えにふうんとうなずくと、穴掘りを再開した。
夢幻に背を向けたまま喋る。
「この街の、音楽だけは好きだよ。救いの音色にも聞こえる」
「・・・・・・街の外に、音楽はないの?」
「トリもウマもあんまり歌わないな。・・・なんでだろう。この街は、よく歌う。短調ばっかりだけど」
さっき歌った歌も、短調だった。