フンボルトペンギンは会話の難しさを知る
小生は今、普段見慣れない光景を目にしている。
柵越しに外を見るのは変わらないのだが、その外の景色が流れていくのは、いつもではありえないことだ。
しかも、狭い。小生、四角い箱の中に立っている。四方のうち三方が壁。正面は柵。いつもとは様子が違う。
なぜ、周りの景色が変わらないか。それは小生が常に、とある施設のペンギン舎の中に居るフンボルトペンギンの超魅力あふれるピー太だからである。小生はいつも、ペンギン舎の中から柵の外を見るので、柵の外の景色は大して変わらない。
外の景色が動いて見えるのは、小生が全力で走りながら柵の外を見ている時だけだが、それをやると転ぶのであまりしない。そこは注意である。
注意と言えば、である。本当に注意していただきたいのは、先ほど言った小生の名前である。超魅力あふれるピー太と言う名前ではないということだ。あくまで名前の部分はピー太である。
とはいえ、超魅力あふれるが伊達についているわけではないと言うことは誤解しないでいただきたい。 実際問題、小生が超魅力あふれている事は、議論を待つ余地すらなく、一目瞭然なのであるのであって、むしろ、ピーと鳴く訳でも無いのにピー太と呼ばれる事の方が実態に即していないと言うのが、かねてから小生が訴えていることでもあるのである。
なにしろ、小生「ギュゥヴェー」と鳴くのである。
つまり正しくは超魅力あふれるギュゥヴェー太なのである。
……。よくよく考えれば、太もよくわからない。
なんなのであろう「た」って。
もういっそ超魅力あふれるギュゥヴェーで良いのではないか。小生を表すのにここまで過不足の無い完璧な形容があろうか。
………………。
そうしよう。もう今日から小生「超魅力あふれるギュゥヴェー」と名乗ることにしよう。決めた。小生、今、決めた。
「キュウィ゛ィギュゥヴェー」
超魅力あふれるギュゥヴェー。
ふむ、やはり悪くない。今から小生は「超魅力あふれるギュゥヴェー」であって、「ピー太」では無い。「ピー太」とは決別したのである。今後「ピー太」と呼ばれる事があっても、小生は返事をすることはないだろう。皆、心せよ。
小生がそんな決心を新たにしている間に、いつの間にか、柵の外の景色は止まっていた。
白い。少なくとも柵越しに空は見えない。部屋の中だろうか。
変な匂いがする。
わずかな振動が箱を襲った。
「おい、ピー太? 着いたぞ」
「キュゥ」
うむ?
タカハシの声が聞こえたので、柵を見やると、柵が開いていくのが見えた。
「じゃあ、先生いつもの事ですがよろしくお願いします」
「ハイハイ。どれ、ピー太? 元気だったかなぁ」
む、この声は、「センセイ」ではないか。
気づけば小生は白い衣服をまとった翁に抱きかかえられていた。
「おぉ、ピー太、相変わらずおとなしいね、お前は。賢い賢い」
「キュウェ」
そうであろう、センセイ。小生は賢いのである。
センセイの所へ連れてこられたと言う事は、なるほど、今日はケンシンであったか。
「じゃ、お願いします」
タカハシの声と共に、小生の後ろで扉の閉まる音がした。
ケンシンは、たまに行われる。こうして舎を離れ連れてこられた先で、何をしているのか、小生にはよくわからぬのだが、センセイが小生の体を調べているようだ。
「ようし、じゃあ、まずは身長体重と行くか」
センセイはそう言うと、小生を台の上に置いた。
この台、若干高さがあり、小生実を言うとあまり好きではないのであるが、まぁ、致し方ない。
「よしよし、いい子だな、ピー太」
小生はおとなしくしている。センセイは小生の魅力と賢さに気付いている良き翁であるため、小生はセンセイが嫌いではない。以前は何をされるのか不安が勝ち、抵抗してみたこともあったのだが、センセイが困っているような顔を浮かべていたので、それ以来はやめている。
あまり痛いでも、不快でもないことであるし。
「ふむ、前回と変わりは…………、体重、だな」
センセイが困り顔で小生を見た。
なんであるか。小生おとなしくしているではないか。
「ピー太、お前あまり食べすぎてはいけないよ?」
「キュヴェヴェュイ」
我慢するようにはしているがなかなか難しいのだ、センセイ。
「そうか分かってくれるか、いい子だね」
「キュヴ」
いや、そうではなく。
「うんうん」
…………。小生がセンセイを嫌いでない理由はもう一つある。
センセイは、小生に話しかけてくる人の一人だ。まるで、言葉が通じているのが分かっているように。
その扱いが小生は嬉しい。
「よし、じゃあ、高橋君にはピー太の餌を少し控えさせる様に言っておこうか」
そう言うと、センセイはなにやらメモを取り始めた。
「ギュギュギュヴェィ!!」
待たれよセンセイ!!
「そうだな、ダイエット頑張ろうな、ピー太」
…………。
惜しむらくは、小生の言葉がセンセイには通じていないことである。
餌、減るのであろうか。
センセイは小生の意気消沈ぶりを気に留めることもなく、淡々とケンシンを行っていく。
小生、もはや茫然自失であった。
餌が減る。それは小生の楽しみの一つが失われることに他ならない。死活問題である。
小生は意を決して、センセイに話しかける。真剣に話せば、もしかしたら小生の言葉も通じるかもしれない。そんな希望を胸に。
「キュウェェ」
時にセンセイ。
「ん? なんだいピー太。翼が痛いのか? 特に外傷はないようだが」
そう言って、センセイは今まで見ていた小生の右の翼をさらに確認し始めた。
「ギュ」
そうではない。
小生はセンセイの手を振りほどきながら、もう一度懇願してみた。
「キュウェヴェィイィキュ」
先ほどの、餌の話をもう一度考え直してはくれまいか。
「ふむ、特に翼骨周辺に異常もないようだが……、筋……でも、ないな」
そう言いながら、センセイはしわしわの骨ばった手で口元覆い、なにやら考え込んでしまった。
通じていない。
小生の淡い希望潰える。
考え込むような事ではないのだが。
「ピー太」
「キュゥ」
なんであろうかセンセイ。
センセイの顔を見ると、センセイも小生を見ていた。
「よく、ペンギンは飛べない鳥なんて事を言われる。その翼は飾りだなどとね。
しかし、それは違う。この翼を使って君たちは、いかに見事に水中を自由に“飛ぶ”事が出来るか。それは他の鳥類に真似の出来ない、すばらしい能力だ。
だからこそ、君たちがこの翼を大事にしているのはよくわかる。
わかるんだけど、今だけは、少し、私にこの翼を見せてくれないかな。君たちが健康で、自由に飛ぶことが出来るように、少しだけ力に成れると思うんだ。
わかってくれるかな、ピー太」
そう言いながらセンセイは小生の右翼に触れた。両手で包み込むように。優しく。
センセイは細めた眼で正面から小生を見つめていた。
「キュヴェ」
なんの話だ。
「そうか、わかってくれるか、ピー太。ありがとう。お前は本当に賢いね。さぁ、早く済ませてしまおうね」
センセイはしわしわの顔を、さらにしわしわにしながら何度も頷いた。
まったくもって話が伝わっていないし、センセイは勝手に勘違いをしたまま納得してしまうしではあるが、小生はその顔を見ているうちに、なんとなく、センセイの言うことなのであるから、餌が少しくらい減ってしまうのも致し方ないかもしれないと言う気持ちになっていた。
小生は、センセイの言う通り、賢いペンギンなのである。聞き分けのよい、違いのわかるペンギンなのである。
そこが小生の良い所である。
……良い、ところ。
「ギュヴッ!!」
いかんっ!
「どうした、ピー太、またどこか痛むのか!」
突然声を上げた小生に驚き、センセイが慌てているが、それどころではない!
小生、ピー太と呼ばれて散々返事をしてしまっていた!
あぁ、何たる不覚。
これではまるで小生が自らのことを、魅力あふれるギュゥヴェーだと思えていないみたいではないか。
そんなことはないのに。小生、魅力あふれるギュゥヴェーであるのに。
センセイはなにやら、メモを見返しながら小生の周りをウロウロとしている。
ええい、センセイ、鬱陶しいではないか。
「斑紋が出てるわけでもなし、熱はないな。口嘴の色も、腺液も異常は無いようだし」
センセイは何やら訳のわからない言葉を呟きだした。
小生はひたすらに、自己嫌悪に苛まれていて、センセイの相手をするどころではない。
いかん、やはり、小生生まれ変わらねばなるまい。
「ピー太? どこか具合が悪いのか?」
すまぬ、センセイ。小生はもう、ピー太ではないのである。
「ピー太? おい、ピー太よ」
ピー太と呼ばれている限り、返事をするわけにはいかぬ。
小生はフンボルトペンギンである。名をピー太改め、そう、超魅力あふれるギュゥヴェーと言う。




