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フンボルトペンギンは己が身に何を宿すか

少しだけ時計の針を巻き戻してのお話

 僕はフンボルトペンギンのピー太。ピーと鳴いた事はないけど、そんな名前を付けられた。

 とある郊外の公園。動物園や水族館と名乗るには小さなこの施設で、二十三羽の仲間たちと暮らしている。日々やることと言えば、朝起きて、タカハシやトミタがくれる餌を食べる。アジやイワシやシシャモやその他諸々だ。たまにイカが入ってる。僕はそのたまのイカがとても好きだ。

 ご飯を食べたら、どうするか。

 お腹いっぱいまで食べて苦しくなった時は、岩場に身を預けて食休みをしたりする。

 お腹がそんなに一杯でない時は、プールに入って泳いだり、身繕いをしたり、日向ぼっこをしたりする。のんびりと流れる雲を追いかけたりすることもある。

 でも、それ意外に良くするのが、柵の前に現れる人々を見ることだ。

 僕はなぜか、人の言葉がわかる。

 当たり前のように、ここに来園する人々や、餌をくれるタカハシ達の言葉が理解できる。あまりに当たり前だったので、そういうものだと思っていたが、どうやら当たり前ではないらしく、僕以外のペンギンはどうやら人の言葉がわからないらしい。

 まあ、なんでかよくわからないからよくわからないので、あまり考えたことはない。そんなに困ってもいないし。

 むしろせっかくなのでと言う感じで、僕はよく、柵の前の人々を見る。そして、何を考えてるのかと言うことを観察している。

 特に二人以上だったり、一人でもいいのだけど、良く喋る人間が好きだ。

 振る舞いや仕草や表情から、何を考えているかを察するのは、とても難しい。

 最近のお気に入りは「小生」だ。

 タカハシ達が週末と呼ぶ日。園内は多少の賑わいを見せる。

 人間の親子に、番い。同じような年頃の男女の群れ。多くのものが園を訪れ、そしてペンギン舎へと足を延ばしてくる。

 そんな賑やかな、様々な顔ぶれを見ることのできる週末は確かに楽しい。なんでか知らないけれども、餌の回数も一度多い。

 でも、そうでない日、平日と呼ぶらしいけど、そっちも僕は好きだ。特に最近は。

 なぜなら「小生」が現れるのは大体、人影のまばらな平日だからだ。

「小生」は二、三日おきに現れる。決まって、太陽が真上を過ぎてからだ。園には興味がないのか、見飽きたのか、遠くに見えたときから、他の動物達の檻に目をやったりと言う様子を見せず、まっすぐにペンギン舎へと歩いて来る。

 よほどペンギンが好きなのか、と思いきやそうではない。

「小生」はペンギン舎の前まで来ると、いつも決まったベンチ、僕のお気に入りの岩陰のすぐ近くのベンチに腰を下ろし、荷物を置くと、そのかばんの中から、冊子を取り出す。

 聞き取れないくらいの音量で、なにやらぶつぶつと呟きながら、それを読むことしばし。

 おもむろにベンチから立ちあがると、身振り手振りをつけ話し出すのだ。

「小生、宮野井太一と申します。吾郷の工廠に努めております機関工、宮野井公孝の使いで参りました! 作佐部少尉殿はおられますか!」

 先ほどまで、ぶつぶつと小声で何やら言っていたのと同じ人間が出す声かと初めて見たときは驚いた。

 とても芯が通っていて綺麗に響く声だったからだ。

 大きな声だけど、煩くは感じない。

「はい! 父がお世話になっております。作佐部少尉にお届け物と、使いに参りました」

「どうも、恐縮であります!」

「いえ! 寄り道をするなと言われ、あ、すみま……ちょっとっ!」

 しばらくの間、「小生」はそうやって、ベンチに座りぶつぶつと本を読みふけり、立ち上がれば、体を動かしながら大きく綺麗な声で、そこには居ない誰かと会話をしたりする事を繰り返す。

 何を言っているか、知らない人や、場所や、わからない言葉が多くていまいちわからないのだけど、僕は「小生」が来た時はいつもそれに魅入ってしまう。

 そんな時、僕は、まるで、「小生」の目の前に他の誰かが居るような錯覚を覚える。

 ある日、「小生」がいない時、ペンギン舎の掃除をしていたタカハシとトミタの会話を聞いていると「小生」の話題が出ていた。

 僕は気になったので、近くまで行き、二人の会話に耳を済ませた。

「富田さん、知ってます? ペンギン舎によく来るお客さん」

「ん? あー、何人か居るねぇ、どんな人?」

「ほら、なんか役者志望みたいな感じの」

「あー、彼ね。人の少ない平日なんかに、良くここで練習しているのを見かけるね」

「そうなんすよ、やっぱ富田さんも知ってました?」

「はっはっは、そりゃあ、目立つからねぇ」

 そんな事を話しながら、二人はデッキブラシで僕たちを追い立てる様にして、岩場の掃除に集中していった。

 僕は、二人のもとを離れ、お気に入りの岩陰へと移動した。

 そこから、いつも「小生」の居るベンチを眺める。その日「小生」は来なかった。

 役者志望と言うのが、どういうことなのか、いまいちピンと来なかったのだけど、どうやら「小生」は何かを練習しているらしい。

 練習をすると、何かが出来るようになる。僕も、それで巧く泳げるようになったし、大きな魚も食べられるようになった。「小生」の練習が実を結ぶといいなと僕は思った。

 僕が「小生」の練習を見かける様になって何度目か。

 その日も、小生はわき目も振らずペンギン舎にやって来て、特等席に腰を下ろした。

 僕も、「小生」を見るための特等席を確保した。

 他の仲間は、「小生」を、たまに来る、なんかやかましい人間、としか思っていないらしい。

 こんなに面白いのに。

 その日も、「小生」の練習が始まった。

「小生が思うに、おそらくこの国は、早晩大きくなった戦火に飲み込まれていくのでありましょう」

「大学の先生たちが話しているのを聞きました。小生の所属する研究室でもそういった話題が日々上ります」

「父が、呉に移るようにと辞令を貰ったそうです」

「翔子さんは、宮島少佐のご長男の方とご一緒になられるのですか?」

 大きな声で、か細い声で、荒々しい顔で、物憂げな顔で。

「小生」の声も、表情も、振る舞いも、刻一刻と変わる。

 初めて見たときの練習より、その日の練習は、なんというか、迫力があった。それは、「小生」の声から発せられる物なのだろうか。表情やしぐさからにじみ出るものなのだろうか。

 僕に、その判断はつかないけれど、とにかく「小生」に惹き付けられ、見入っていた。

 やがて「小生」は練習を終えた。

 いつもと違ったのは、「小生」の練習の迫力だけではなかった。なんと、「小生」はベンチに腰掛けると僕に話しかけてきた。

「よう、ペンギン。お前は、俺の演技をずっと見ててくれたよな」

 話しかけられた事にも驚いたが、その口調、声にももっと驚いた。僕の知っている「小生」と全然別人の様だったからだ。

「デカい声張り上げて、居もしない誰かと喋ってる馬鹿な奴が居るって思ったか?」

 僕の驚きをよそに、「小生」は続ける。

「ギュゥヴェー」

 そんな事はない。とても面白かった。僕はすぐさま、そう否定した。

 しかし、僕の言葉は人間に届かない。

「ははは、なんだ、お前、人の言葉がわかるのか」

「ギュゥヴェー」

 わかる。

 何度試しても、結果は同じだ。

「なんてな、わかるわけないか」

「小生」はそう言って、頭を振った。

「キュゥェー」

 わかるのに。

「でもな」

「小生」の視線が再び、僕を捉える。

「たとえ、言葉がわかんなくたって。たとえ、ペンギンだってだ。お前は、俺の、宮野井太一の、初めての観客だ。お前が見ててくれたおかげで、稽古に身が入った。誰かに見られてる。今この瞬間、誰かに見られている以上、俺は坂本慶介でなく、宮野井太一として、見られるんだって、な」

 良くわからなかった。目の前の「小生」は本当はサカモトで、でもミヤノイでもあるらしい。

 それが演技と言うものなのだろうか。

 自分は自分じゃないのだろうか。自分は誰かなのだろうか。

 自分じゃない誰かであると言うことの意味が僕にはよくわからなかった。

 でも、とにかく「小生」の顔は晴れ晴れとしている。それだけは、僕にもよくわかる。

「今度のオーディション。結果がどうあれ、やるだけのことをやってやるって、気分になれたよ」

 そう「小生」は僕に告げると、ベンチから立ちあがり、荷物を手にして、去って行った。

 僕もつられて少しだけ晴れ晴れしい気分になって、その背中を見送った。

 そして、それが僕が「小生」を見た最後だ。

 その日から「小生」は園に顔を見せることはなかった。タカハシやトミタも、「小生」を見なくなったと口にしていた。

「小生」は役者と言う者に成れたのだろうか。練習は実を結んだのだろうか。

 そして、自分ではない誰かになるということは結局何だったのだろうか。

 そのどの疑問にも、僕は答えを持たない。

「小生」を見かけなくなって、僕の毎日は少しだけつまらなくなってしまった。

 僕の中には、わからないことがあるモヤモヤと、「小生」を見かけることがなくなった、もしかしたらもう会うことはないのかもしれないと思った時のモヤモヤが、いつもあるようになった。

 それはあまり愉快なものではなかった。だから、僕はそれを解決するために、一つの事を思いついた。

 僕が「小生」になってみよう。

 自分が誰かになると言う事が少しはわかるかもしれない。「小生」の事を忘れずにいられるかもしれない。

「ギュゥヴェー」

 そうだそれがいい!

 その日から、僕は「小生」と名乗ることにした。

 小生はフンボルトペンギンである。名をピー太と言う。

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