フンボルトペンギンは来し方を振り返らず
「………………………………………………キュッ!」
眠っていた。
小生、今眠っていた。
これはいかん。
しかしそれにしても、今日、小生は、常にうつらうつらとしている。陽気もある。餌が美味かったせいもある。
だが、何よりも、昨晩の眠りが浅かったためだ。
寝床のポジション取りと言うか、隣に寝ていたペンスケ。奴のせいである。夢を見てたのか何だか知らないが、「キュェ」「キュェ」とボソボソ寝言を言うわ、急に身じろぎをしてみせるわ、その度に、うっすらと眠りを阻害される事数多。お陰で、良く眠れなかったのだ。
運悪く、今日は晴天の日曜日。
動物園と呼ぶには少しこぶりで、基本的には盛況と言う言葉とは縁遠いはずのこの園も、今日ばかりはそれなりの賑わいを見せている。
ペンギン舎の前も、人が途切れることはなく、誰の何の声が、と言い表せない様な独特の喧騒に覆われている。つまり、平日のようには眠れないのである。
当のペンスケはと言えば、ちゃっかり岩影に身を潜めて寝ている。あやつめ。あとでタカハシに見つかって怒られるがいい。
眠気覚ましも兼ね、無論、なにより来園者の為にと何度かプールで泳ぎもするのだが、眠気が飛ぶのも一時だ。
なにか、眠気の飛ぶような面白いことは無いかと、柵の向こうへと視線を向ける。
やはり一番多いのは家族連れ。それに次いで男女の番。カメラを持った者達も多く見かける。持っているカメラが大きい者ほどになるのだが、ああ言う者達は常にカメラを覗いている。果たして、ちゃんと小生たちを見ているのであろうか。
写真になった小生と、今、彼らの目の前に居る小生では、何が違うのだろう。
少なからぬ者達が、ああしてカメラで小生たちを撮っていくので、きっと、より良い小生がそこにいるに違いない。小生は小生なのであるが、なにか、自分から離れた所で、より良い小生が居ると思うと、なんだか得をした様な損をした様な不思議な気持ちになる。
そいつがいくらちやほやと褒められていても、褒められているのは小生とそっくりだけど、小生ではないそいつな気がして、小生は褒められていないような気がするのだ。
いかん、いかん。
こういう事を考えると楽しくもあり、なんだか不安になるようでもあり、そしてなにより眠くなるのだ。小生、わからないことを考えるのは苦手なのである。
気を紛らわそうと、再び、柵の向こうに目を向けると、ふと一人の少女が目に留まる。
「ギュウェ?」
あの少女、午前中の半分夢うつつだった時に見たような見なかったような見たような。
よくよく見れば、様子がおかしかった。
柵の一番近い場所にあるベンチに腰かけているその少女をよく見ようと、小生はその柵の前まで移動した。そして、近づくにつれ、小生はその少女に対して抱いていた違和感の正体を悟った。
この少女、ずっと俯き、一切、ペンギン舎を見ていないのである。見ているのは、自分の、ベンチの下の地面にすら届かない小さな足だ。
普通、ペンギン舎を訪れる人間は、小生らを見る。先に述べた様に、小生らではなく、カメラを覗き込んでいる者も居るには居るが、そのカメラは、小生らを捉えている。
にもかかわらず、その少女は一切、ペンギン舎を見ていなかった。どのペンギンも見ていない。
たまに、何か動物を見ると言う以外の目的があって、この園を訪れるもの居る。そう言う者が居たなと、小生の中に思い当たる者も居る。
また、なんの目的も、動物を見ると言う目的すらもなく、ふらっと散策している者も珍しくはない。先日の翁など典型であろう。
しかし、その両者ともと、なにやら趣の違う雰囲気を、その少女はまとっているのである。
この少女、小生が近づいて行っても、一切気づかない。
これには、さしもの小生もいささか鳥尊心を傷つけられなくもない。
小生は思い切って話しかけることにした。
「ギュィヴェッ!」
そこのお嬢さん!
少女は無視。
小生、若干苛だち。
「ギュィヴェッ!」
そこのお嬢さん!
少女再び無視。マジであるか。
小生、苛立ちと驚愕。
ここで引いては雄がすたると、小生三度鳴く。
「ギュィヴェッッッ!」
そこのお嬢さん!!
小生の必死の呼びかけに、ついに少女の顔がこちらを向き、その両目が小生を捉えた。
焦点の合っていなかったような目をして、呆けていた様子の顔に、徐々に表情が戻ってくる。
「……ペン、ギン?」
「ギュィッ、ギュィヴェッ、ギュギュィエ」
うむ、まさしくペンギンである。正確に言えばフンボルトペンギンであるし、ピー太である。ちなみに、ピー太と言うが決してピーと鳴くわけではない。むしろ、今お聞き頂いたよ
「…………、なんだ」
「………ギュィ」
なんだ、とはなんだ。
この少女、こんなに愛おしいペンギンである小生を捕まえて、なんだと言い放ったのである。
あるまじき!
しかも、小生の鳴き声を遮って!
あるまじきあるまじき!
よかろう。そこに直るが良い、少女。小生らフンボルトペンギンがいかに可愛いか、そして、その中で小生が、いかにどのようにしてどれだけ一際輝いているかを、説明してしんぜよう。
袖があればまくっていたところだ。タオルを持っていればねじって頭に巻いていたところだ。
そのどちらも小生は持ち合わせていないのであるので、とりあえず、バタバタと翼を羽ばたかせて気合を入れる。まず、何から話せばよいだろうか。そうであるな。まず、ペンギンの愛くるしさを列挙するとしよう。
そうして小生が気合十分に、改めて少女を向き直った時、とても微かな声が聞こえた。
「…………お母さん、じゃない」
「………ギュ」
少女の口から漏れた、微かな声。それは小生の聞き間違いでなければ、お母さん、と言っていた。
むろん、小生、ペンギンであるわけで、なぜかよくわからないままに人の言葉を解せるからとは言うものの、その拙さで聞き間違いをしてしまう可能性もあるのだ。
しかし、可能性は可能性。別の可能性もありうる。
もし、この少女が口にしたのが、弱々しいお母さん、であったのならば、それは、この少女がいわゆる迷子であると言う事である。
「………ギィ」
どうしたものか。
小生の気合はいつの間にか、しぼんでいた。
小生の愛くるしさを理解しないこの少女は、確かに許すまじき愚か者ではあるが、いささか、大変な状況でもあるようであるし。かと言って、親とはぐれた子の不安というものが、小生にはどうも理解が出来ない。
小生は親を知らぬ。
小生らの仲間たちの中に、雛も居ればその親も居る。
しかし、小生には番も居なければ雛も居ない。
そして、小生は小生の親の記憶が無い。雛鳥の頃から気づけば、この園に居た。多くの成鳥やタカハシに世話をしてもらったが、親、ではない。と思う。
であるからして、小生はこの少女の境遇が、いまいちわからぬ。
こんな愛くるしい小生を見て、盛り上がりを見せぬほど、親と離ればなれになるということは、悲しい物なのか。それとも寂しい物なのか。それとも怖いものなのだろうか。
それほどまでにこの少女を追い込む親という存在は一体何たるものなのか。
突如、少女の足元のアスファルトが濡れた。
小生は天を仰いだ。雲はない。
小生は、気合を入れた。袖はなくとも、タオルはなくとも。翼をバタバタと羽ばたかせ、気合を入れた。
「ギュゥヴェーッッ!!」
小生に少女の心中は想像できぬ。表情は、俯いていてうかがい知れぬ。問いかけても、言葉を発さぬ。見れば、固く手を握りしめていることだけはわかる。しかし、それが何を意味をするものかが、小生にはわからぬ。
小生に出来る事。
それは鳴くことだけだ。空を仰いで、精一杯に鳴くことだけだ。
「ギュゥヴェーッッ!! ギュゥヴェーッッ!! ギュゥヴェーッッ!!」
誰か。
タカハシでもトミタでもヤザワでも、誰でも良い。
隣のプレーリドッグやビーバーなる者達を見ている大人でも良い。カメラを覗きこんでいる者達は、今だけでもこちらを見よ。
少女を知るものは居ないか。少女の親を知るものは居ないか。
小生が雄叫びを何度か上げた時、少女の顔が、不意に勢い良く跳ね上がった。そして、左右に素早くかぶりを振る。
何事か。小生はその動きに虚を突かれた。その刹那。
「お゛か゛ぁ゛さ゛ん゛っ!!」
少女も鳴いた。
一瞬の間のあと、遠くから響いた声を小生は捉える。
「ミキちゃんっっ!!」
声のした方を振り向けば、そこには手を大きく振る女性が居た。この少女の親であろうか。
小生は鳴くのを止め、ひとごこち付いた。一方、少女は、気づけば駆け出していた。
必死に母親へとかけていく少女の背中を見ながら、小生は終ぞ、何がそんなに嬉しいものかがわからなかった。こんなに愛くるしい小生らを見るよりも、母親に会える喜びが強いものなのだろうかと、腑に落ちる事が無い。
親というのはなんであろうか。自ら、誰からどう生まれたのかと言うのはそんなに大事なことなのであろうか。
小生はそんなことを知らなくても、思わなくても、日々美味しくアジを食べている。
もしかして、大事なことなのであろうかもしれない。でも、大事なことでは無いのであろうかもしれない。
わからぬ。
とりあえず、少女よ、落ち着いたら、またペンギン舎に顔を出すと良い。その時は、小生らの、なかでも小生の、輝く魅力を説明してしんぜよう。気合を入れて。
小生は愛くるしいフンボルトペンギン。名をピー太と言う。




