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フンボルトペンギンは夕焼けの痛みに咽ぶ

 緑が鮮やかに茂る季節に、木々の間を吹き抜ける風は、心地よい物であると小生は知っている。仲睦まじく互いの手を取り合う、人の若い番がそう言っているのを、聞いたことがあるからである。

 賢しきペンギンである小生は、一度それを聴き、そして理解し、そしてその心地よさを楽しむことを知った。

 暗がりにあった様々な物を照らし、世界に光をもたらす朝陽が、晴れ晴れしいものだと小生は知っている。息を白くけぶらせながら、それでも嬉しそうに目を細め、昇りゆく太陽を見つめる老飼育員を見た事があるからである。

 それからと言うもの、たまに早く起きてしまった朝など、いまだまどろみの中にある仲間たちの中にあって、小生は一人、日の出の晴れ晴れしさを楽しんでみたりする。

 雨の鬱屈さ、夏の日差しのけだるさ、星が覗く夜の空気に清気が満ちていること。多くの事を、小生は、動物園と呼ぶには少し小ぶりなこの公園で学んだ。

 ペンギンではあるが、人の言葉を解し、ペンギンであるがゆえに、人の言葉を喋る事能わず。

そしてそれがゆえに、ペンギンの輪からも、人の輪からも離れた所に、立たざるを得なかった。しかし、それでも得るものはあったと思っていた。

 その時までは。

 その時、小生は本当には何も学んでいなかったのだと言う事を、学ぶ事になる。

 それは、地面や木や草花も、ベンチも、檻も、公園にあるすべてが紅に染まる夕暮れ時の事だった。

 心地よい風や、夏の暑さや清廉な夜気と同様に、夕暮れの意味も小生は知っていた。一面が茜色に染まるこの時間は、物悲しさを感じるものである、と。

 そんな夕暮れの中で小生は、念入りにペンギン舎を掃除するタカハシの脇で、その姿を見ていた。

 タカハシが、掃除を念入りにすることなど、珍しいことである。いつもはボヤキ半分、手抜き半分。つまり大体は掃除をしていない。たまに、小生と追いかけっこなどをしながら、適当にこなすのがタカハシの掃除だった。

 しかし、その日は違った。タカハシは、無駄口を叩く事無く、あごの先から滴る汗もいとわず、黙々と、ペンギン舎を磨きあげていた。

 我らがペンギン舎のボス、ギンジロウがよく腰を下ろしていた岩も、ピカピカと橙色の夕日を反射させている。小生お気に入りの、岩場の影にあった苔もすっかり綺麗になっていた。

 その様子はまるで、今まで我らが暮らしていた痕跡が、無くなってしまうかの様だった。

 小生は、タカハシに話しかけた。

「ギュヴェピギュギュッ!」

 なぜ、そんなにも熱心に綺麗にするのか!

 タカハシは、一度ブラシを掛ける手を留め小生の方を向いたが、笑っているとも、怒っているともとれない、不思議な顔を浮かべるだけであった。

「なぁ、覚えてるか、ピー太。お前が初めて、このペンギン舎を走り回ったときの事」

 タカハシは、急に聴いても居ない事を話し出した。

「まだ、こんな小さくてさ」

「ギェー」

 覚えておらぬ。

「哺育器から出して、他のペンギンたちに会わせるのも初めてだったしさ。そもそもウチの園で人工哺育なんて未経験で、右も左も分かんなかったからなぁ。

 どうなるかって、園長まで見に来て、ヒヤヒヤしてるところで、いきなりすっ転んでプール落っこちてなぁ。

 哺育器の時に、小さな桶みたいので泳がせてはいたけど、あんときは、みんな心臓止まるかと思ったよ。

 お前はわれ関せず、スイスイ泳いでたけどな。はっはっはっは」

「…………ギュヴ」

 …………そうであったのか。

「みんな居なくなっちゃったな」

「ギュ」

 うむ。

 タカハシは、手を留め、杖代わりのブラシに体を預けると、今の今まで自ら磨き上げていたペンギン舎を改めて見回した。

 小生もつられて見回す。

 綺麗であった。

 抜け落ちた羽も、糞もなく、エサの食べ残しや残骸もない。柵の外から飛んできた落ち葉も、プールの底にこびりついた苔も見当たらない。そして、仲間たちもまた、見当たらない。

 実に、すっからかんと、綺麗であった。

 トミタが園長や「センセイ」としていた話を伝え聞くに、小生はどうやら、群れに馴染めぬ個体として、引き取り手から敬遠されたとの事であった。

 ここ数日間。仲間たちがいくつかのグループに分かれ、ここから引っ越していく様を、小生は見送るばかりであった。ペンギンたちだけではない。ペンギン舎の向かいに居たヤマアラシなるなんかトゲトゲした奴らも見送った。中に何を載せていたのかはわからぬが、園内を走るトラックを多く見かけた。

 日に日に、園は静かになり、その静けさと呼応して、来場者もまばらになって行った。

「俺が入って、4年目で、はじめてメインで任された大きな仕事だったんだ。お前の人工哺育は。

 今思えば、人の手の中に里心を抱かせちゃいけないなんて、当たり前の話なんだけどさ、ゼロから勉強して、とにかく必死だったし、もうひたすらに心配だった。

 大丈夫か? 大丈夫か? ってひっきりなしに話しかけて、事あるごとにピー太、ピー太って。

 トミタさんによく言われたよ。ピーピー、ピーピー、雛はどっちだよって。

 そんなこんなで、しょっちゅう話しかけてたからかもしれないな、お前が、人の言葉わかっちゃうのも」

 タカハシは、何気ない仕方で、しかしとんでもない一言を放った。

「ギュヴェッ!!」

 気づいてたのか!

「あー、ちなみに、俺は、ペンギン語わかんないよ。ペンギンに育てられてないし。はっはっは」

「ギギョエっ!」

 笑っている場合か!

「だからさ」

 小生の怒りに、まるで応える様子も無くタカハシは話を続ける。

「結局、お前が群れに馴染めないって言われちゃったのは、きっと俺のせいだ」

 さきほどまでの様子とは打って変わって、ゾッとするような冷たい声で、タカハシは続けた。

「経験も知識もない半人前が、仕事任されたって事にはしゃいで舞い上がって、雛が育った後、どう生きていくのかって言う一番大事な所を、蔑ろにしちまった。

 普通、ペンギンは人の言葉を理解しないんだ。

 そう。むしろ、理解しなくていいんだ。」

 タカハシはうなだれていた。その表情は夕焼けの影に隠れてしまって伺えない。

「ごめんな、ピー太」

 力なく呟かれたその一言が、しっかりと聞こえたことが、園の閑静さをより際立たせていた。

 小生は。

 タカハシの独白の意味が解ってしまう、人の言葉を解す賢しきフンボルトペンギンである所に小生は。

「ギュッヴェェェェェエエエエエッッ!!」

 何を言うかああああああああああっ!!

 吼えた。

 タカハシの言葉に、あらん限りの声で応じた。

「ギュヴェヴェッグッッ!!

 ギュー! ギャギュ! ベギュギュグエエェ!!」

 何が蔑ろであるか!!

 まるで今の小生が、悲しく惨めでダメダメな鳥生を生きているかの如く言いおって!!

 小生は、憤慨した。これまでの人生でもっとも憤慨したやもしれぬ。いや、カラスに糞を食わされたときの方が、憤慨していたか。待て、あの時イカを食いそこなった時も。それとも、あの時、小生の昼寝を妨げられた時も。

「ギュグ」

 そうではない。

 とかく、タカハシは愚かである。

 小生の。今を生きているギュゥヴェー太の生は、決して蔑ろになどなっていない。

 確かに、少しばかり、仲間たちの距離を縮めるのが苦手であったことは否めない。それは、まぁ、なんというか、認めねばなるまい。

 そして、それが人の言葉を解してしまうと言う小生の特異さからくるのだとして、しかし、小生はこの力を恨んだり、疎んだりしたことは一度もない。

 小生は、実に多くの素晴らしい事を、人の言葉から学んだ。

 だから、むしろ僥倖と言えるのだ。

「ギュベギュッ」

 だから気にするでない、タカハシよ。

 小生は、そう言葉を掛けたのだが、タカハシは肩を震わせながら俯いたままだった。

 この時ほど、人の言葉を理解しながらも、人の言葉を操る事能わぬ卑小な身を悔やんだことは無い。

「ギュベギギュッ」

 決して強がりではないからな、タカハシよ。

 小生は重ねて訴える。しかし、タカハシは黙ったままだ。

 小生の言葉をどれだけ繰ろうとも、小生の気持ちはタカハシには届かない。

 その、無慈悲で、覆しがたい現実を、タカハシの沈黙は雄弁に語る。

 それでも小生は鳴いた。

「ギュベェウェ!」

 楽しかったのだ!

「ギュベエヴェ、ウエギュギュッッ、ギギギュヴェ。ギュヴェッヴェ!!」

 タカハシの、トミタの、多くの人の子らの、番の、お年寄りたちの話を聴けて、楽しかったのだ!!

 気づけば、小生は心の内を余すことなく吐き出していた。

 小生が、ペンギンの言葉で騒ぎ立てても、タカハシには伝わらない。

 小生の言葉を理解してくれるペンギンの、その友達を小生は作れなかった。仲間も居なくなってしまった。小生の想いを真に理解してくれる者はいないのだ。

 人の言葉を知り、人の思いを知ることを厭わしいと思ったことは無いと、小生はさきほど述べた。

 その言葉に嘘は無い。しかし、その思いを誰かと共有することが出来ないと言う事について、ここまで深く考えを巡らせたことはなかった。イカを寄越せと叫んだにも関わらず、タカハシが小さなイワシを投げて寄越したときですら。

 陽が暮れようとしていた。小生の、タカハシの、それぞれの影が長くなり、周囲はすっかり夕焼けの色と影の色の二色に包まれていた。

「そろそろ。戻らないとな」

 タカハシは、小さくつぶやくと、掃除用のバケツを片付け始めた。

 その後ろ姿を見て、今まで、小生が学んでいたと感じていた夕暮れの物悲しさが正しい理解ではなかった

事を悟った。

 夕暮れは一日の終わりを告げるのだ。

 それがなぜ、物悲しいのか。それは、明日が今日の続きではないからなのだ。

 小生はこれまで、昨日の続きの今日。そして、今日の続きの明日しか生きてこなかった。

 餌を食べ、陽を浴び、水に潜り、歓声を受け、そして眠る。

 その穏やかな日々は、今日で終わる。明日から変わる。具体的にどうなるのか、小生は詳しく知らぬが、今までと同じとはいくまい。

 もう戻らぬ日々を告げるからこそ、赤く照らされたタカハシの背中は、こんなにも物悲しいのだ。

 また、一台トラックがペンギン舎の前を過ぎ、夕暮れに照らされた道から、影の中へと消えて行った。

「ほら、行くぞ。ピー太」

 タカハシはついぞ小生の名前を間違えたままであった。まぁ、ピー太も悪くは無い。

「ギュッヴェッヴェギギュ」

 ふっふっふ、上等である。

 思いが届かぬ居たたまれなさ。そして、茜色に包まれた世界の悲しさと愛おしさ。

 まだまだ、小生の知らぬ思い、知らぬ事ばかりだ。

 風の心地よさも、朝陽の晴れ晴れしさも、夏の日のけだるさも、夜気の清々しさも、そのすばらしさは、きっと小生の知っている以上の物なのだろう。

 小生がまだ何も学べていなかった事を、小生は今、学んだ。

 それはいくばくかの痛みを伴ったが、学びの代償なのだ。安い物であろう。

 小生はフンボルトペンギンのピー太。痛みも学びに変えてのける、賢しき、そして逞しきペンギンなのである。

「ギュヴェッェエーー!!」

 伸びる影に負けじと、小生は、長く啼いた。

かなり間が空いてしまって申し訳ありません。


久しぶりの投稿で、物語に幕と言うのも何とも不恰好ではあるのですが、ひとまず、ピー太のこの園での日々はここで一区切りです。


ピー太の事です。おそらくこの物語の、外側でも、ふてぶてしくそして賢しく、元気にやっていることと思います。


ご愛顧をありがとうございました。

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