旅行日和
旅行日和という言葉を聞いてどんな風景を思い浮かべるかは人それぞれだと思う。例えば、澄み切ったように高く、晴れ渡る秋の空。これはほぼ間違いなく、ほとんど人が旅行日和であると答えるだろう。ではシトシトとした秋雨の日ならどうだろうか。もしかしたら、風情があっていいじゃないかという人もいるかもしれないけれど、少なくとも僕は雨の日を旅行日和だとは思わない。
別に雨が嫌いだという話じゃない。僕は寧ろ雨が好きだ。あまり強すぎない雨が地面に当たる音は綺麗だと感じるし、その音を聞き流しながら本を読む休日なんて最高だと思う。
だけど、それが旅行の日となれば全く話は変わってくる。そりゃあそうだろう、旅行中に雨が降っていたら水たまりに気を使わなきゃいけないし。移動の旅に傘をささなきゃならない。めんどくさいって言ったらありゃしないよ。
とまあこんな感じで色々と言ってみたけど、僕の言いたいことはただ一つだ。
美夜湖ちゃんがいるなら天気なんて本当にどうでもいい。美夜湖ちゃんと一緒なら例え嵐の中でも旅行日和だ。
「雨ですねぇ……」
駅のホーム--美夜湖ちゃんは僕の隣に立ち、空から落ちてくる雨粒たちをずっと遠くにある何かを見るような柔らかな雰囲気で眺めて、そう呟いた。
今僕と美夜湖ちゃんは目的地である温泉に向かうためにここで電車を待っている。
この旅行の実現までには美夜湖ちゃんによるご両親の説得だったり、僕による姉さんの説得だったりと紆余曲折あったけれど。無事この日を迎えることができた。 まあ、残念ながら姉さんは最後まで完全には納得してくれなかったけどね。この旅行について何個か条件もつけられたし。それでも今僕はここにいる。最高ではないけれど、上々な結果だと言えるんじゃないだろうか。
「そうだね。でもこれで相合傘ができるね」
美夜湖ちゃんが少しだけ残念そうにしているので、僕はこんな仮に彼女じゃない他人に聞かれたら神である父親に拝み倒して記憶を消してもらわなきゃいけなくなるようなセリフを恥ずかしげもなく言った。しかもとびっきりの笑顔というおまけ付き。
そんな歯の浮くようなセリフを聞いた美夜湖ちゃんは。
「そ、そうですね……」
なんて言って、真っ赤になった顔を首に巻いたチェックのマフラーで半分ほど隠してしまった。流石の美夜湖ちゃんもこれほどまで堂々と言われては恥ずかしかったらしい。髪の毛の間から見える耳は先まで真っ赤に染まっている。
ちなみに美夜湖ちゃんは存外初心だ。今どきの平均的な女子高生と比べてみると、信じられないくらいの純粋培養である。なんでも、ついこの前まで子供がどうやってできるかを知らなかったというのだから驚きだ。
どんな風に育てたらこんなかわいらしい子が出来上がるんだろう。神様の手で育てられたはずの僕ですら、こんなにも擦れてしまっているというのにね。神様などと偉そうにいっても、一人の人間の親としては平均的な存在なんだろうな。そう考えると、美夜湖のご両親はある意味、神様を超えた存在と言うこともできるんじゃないだろうか。
閑話休題。
電車が到着するまで残り約十分。暇を持て余した僕はとりあえず美夜湖ちゃんの観察をすることに決めた。普通のカップルだったらここで他愛もない話でもして時間をつぶすんだろうけど、残念ながら僕たちは普通じゃないのでそうはならない。
彼女曰く、一緒にいるだけで楽しいから話など不要だというのだ。なんでもいいから会話をしていなければ関係を保てないと思っている同級生に言い聞かせてやりたいものだ。
もし、美夜湖ちゃんが本当に神様になったら、バベルの塔破壊を決行した当時の神様よろしく人間から言語を取り上げてしまうかもしれない。あの時、神様が取り上げたのは神代の人々が使っていたという統一言語だけれど。もしそうなったとしたら、今度こそ人間は言葉というツールそのものを失うに違いない。
……仮定の話にしても壮大すぎるな。
どうも僕は頭の中で考え事をする時、勝手に話を大きくしすぎてしまうきらいがあるらしい。ちょっと前に同じようなことを姉さんに話したら「将来神様になるんだから、大きな視点を持つことは良いことだよね」なんて言われてしまった。
冗談ではない。僕は普通の高校生活を送り。できれば美夜湖ちゃんと同じ大学に進学し。彼女と結婚して幸せな家庭を築くのが夢なのだ。就職先に高望みをするつもりはないけれど、神様にだけはなりたくない。第一志望に「神様」なんて書いて提出したら、担任に呼び出しを食らうか。悪ければカウンセラーを進められてしまうだろう。
まあ、自分の将来がどんな風になるかなんてたとえ神様の息子でもわからないんだけどね。その時になったら考えるよ。それより今は美夜湖ちゃんだ。
僕は顔を横に向けて、そこに立つ彼女の足の指先から頭のてっぺんまで一瞥する。
一応、季節は秋ということになっているけど、雨ということもあって今日の気温は低く美夜湖ちゃんの格好もそれに合わせてだいぶモコモコとしたものになっている。
ショート丈で薄手のダッフルコートを着込んで、その上からチェックのマフラーを巻いた、まさに女の子って感じのかわいらしい格好だ。
そんな風にして美夜湖ちゃんを観察していると、僕は彼女にちょっとした違和感を覚えた。別に大したことじゃないけれど、僕はそれを確信へと変えるために行動に出た。
「え……よ、善也くん?」
僕は今にでも鼻と鼻が触れ合ってしまうんじゃないかと思えるくらいの近さまで、自分の顔を美夜湖ちゃんの顔へ近づけた。もちろん、初心な彼女に逃げられないよう僕の両手は彼女の肩を確保済み。
端から見ると、僕が美夜湖ちゃんにキスしようとしているように見えたかもしれない。多分、彼女もそう思ったんだろう。目をつぶって、顔を真っ赤にしていた。
しかし、僕はいきなりそんなことをするようなぶしつけな人間ではない。僕はただ美夜湖ちゃんから感じた違和感の正体を確かめたかっただけだ。
「ねぇ美夜湖ちゃん……珍しいね、美夜湖ちゃんが化粧してるなんてさ」
「……えっ?」
キスをされると覚悟していたのに、いきなり僕からそんな言葉を投げかけられた美夜湖ちゃんは、すこしだけ間抜けかなって思えるそんなかわいらしい声を上げた。
そう、違和感の正体はこれだ。本当に大したことじゃない。いつだったか喫茶店でも言ったような気がするけど、普段の美夜湖ちゃんには全くと言っていいほど化粧っ気がない。なんでも自分を偽っているみたいで好きになれないらしい。なのにそんな彼女が今日に限って目を凝らさなければ気が付かないほどとはいえ化粧をしている。これはどういうことなんだろうか。
「え、えっとこれは……」
「もしかして、昨日はあんまり寝られなかったとか?」
彼女は言葉で返すことはしなかったけれど、僕の考えに間違いはなかったみたいで彼女はうつむいてまた顔を赤らめている。
しかし、旅行が楽しみで寝られなかっただなんて……あぁ、なんて可愛いんだろう。
多分、化粧は寝不足を悟られまいとしてやったんだろう。別に僕はそんなこと気にしないのにね。でも、その健気さこそ美夜湖ちゃんが美夜湖ちゃんたる所以だ。
さて、僕はそんな彼女の健気さに対してどんな風に応えればいいんだろう。でも、この答えは簡単だ。さっきから美夜湖ちゃんはしきりに指で自らの唇を撫でている。
ならば誠実な彼氏である僕がすべきことはたった一つ。
「ねぇ、美夜湖ちゃん」
「はい、何で……っ!?」
僕は彼女が振り向いた瞬間、彼女の唇に自分の唇を押し当てた。
本当に一瞬、秒数に直したら多分一秒ちょっと。
でも、今の美夜湖ちゃんならこれくらいが限界だろう。
実際、美夜湖ちゃんは突然の出来事にショートしてしまったのか目を白黒させている。
そんなことは何も知らない電車が僕らの待つホームへ到着した。
僕はまだ夢見ごごちな彼女の手を取り、電車へ乗り込む。
さあ、楽しい楽しい旅行の始まりだ。