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李寧国記

【李寧国記 番外編】百獣の王

作者: 冬生 恵
掲載日:2026/05/12

「お幸せにね」


 輝くばかりの笑顔で(うなず)いた少女は、後宮の門の手前で(こうべ)を垂れていた男性の元に駆け寄って行く。

 その足取りは軽やかで、背中には翼が生えているのではと思うほど。

 秋の光の中に消えていく一対の影を、(こう) 美芳(みほう)は目を細めて見送った。










「……今日だったか。(りゅう)常在(じょうざい)が後宮を出たのは」


 気だるげに身体の向きを変えた夫を見下ろし、その身体に(ふすま)を掛けながら、美芳は小さく頷いた。どこか感傷的なその横顔に、胸が痛まないと言えば嘘になるだろう。

 彼は(きた)え上げた腕を伸ばし、美芳を寝台に迎え入れようとする。(かす)かな躊躇(ためら)いののち、美芳は夫の隣に身体を横たえた。

 皇后に()えられて以降、夫は彼女の(ねや)から遠ざかっていた。だが、近頃では時折、夜を共にするようになった。相手を務めることもあれば、今日の出来事などの他愛ない話をしたり、息子の成長を共に分かち合って笑ったりして、そのまま眠ることもある。



 今日、夫の下級妃である──その振りをして後宮に潜入していた──劉 翠旺(すいおう)が、(こう) 清顕(せいけん)という青年の妻になるため、後宮を出た。律儀な彼女は、世話になった妃嬪(ひひん)たちに順に挨拶をして回っていたようで、門を越えて行ったのは昼も過ぎた頃だ。


 愛しい男を見つめる彼女の瞳は、それ自体が宝玉(ほうぎょく)のようだった。高統括官も、妻となる女性をそれはそれは大切そうに見下ろしていて、後宮の妃嬪たちが揃って羨望(せんぼう)の眼差しを向けたほどだ。

 彼らは、一刻も早く夫婦になりたいと、冬の吉日を選んで契りを結ぶという。それまでの間は、彼女は実家に身を寄せるようだ。二人の未来に幸福が満ち(あふ)れていることを、美芳も心から願っている。


 彼女の夫は、自身の下級妃を下賜(かし)したことに、取り立てて関心を持っていなさそうに見えた。

 だが、美芳は、夫が彼女を大切に(いつく)しんでいたことを知っている。


「……どうした?」


 彼女を腕の中に抱き、首を(かし)げる夫は穏やかな笑みを浮かべる。

 美芳は思わず、小さな声で(こぼ)していた。


「……よろしかったのですか? 彼女を行かせてしまって」


 その声に、(わず)かでも嫉妬が(にじ)んでいなかっただろうか。(うら)みが()もっていなかっただろうか。


 彼の視線を避けるように顔を背けた美芳(みほう)の頬に、夫である獅英(しえい)は、剣ダコが残る大きな手のひらで触れた。そのままゆっくりと上向かされ、息を飲むほどの美貌が間近に迫る。美芳は動揺を隠せなかった。

 夫は眼前で小さく笑い、美芳に語り掛けた。


「……俺は別に、彼女に恋着(れんちゃく)していた訳ではないぞ?」


 その笑顔は透き通っていて、強がっている素振りはない。目を(またた)かせる美芳に、獅英は苦笑交じりに続けた。


「飾り気のない言葉や態度に、救われる思いはあった。あれのそばに居ると、呼吸が楽になるような。……でも、それだけだ」

「それは……」


 それをあるいは、愛と言うのではないか。

 思わず反駁(はんばく)しかけた美芳の鼻をキュッと(つま)み、獅英が悪戯っぽく微笑む。



「俺は、あいつがあるがままの姿で生きていてくれたら、それでいいと思っている。その隣にいるのが俺でなくとも、あいつが呑気に笑っていてくれるなら、それでいいと。あいつとどうにかなろうとか、これっぽっちも望んじゃいないんだ。

……あれは、皇帝の何でも屋たる祓魔(ふつま)だしな。任務があれば、いくらでも顔を見る機会はある」



 そう。翠旺は後宮を去ったが、それは永遠の別離を意味するのではない。今のところ祓魔唯一の女官である彼女は、後宮内で皇帝を補佐するのに適任だった。


 美芳(みほう)はそれでも、その華奢(きゃしゃ)な肩を震わせてしまう。


 皇帝である夫に相応しくあれるよう、強くなろうと決意した。ただ、弱気の虫は彼女の心の奥底に住み着き、隙を見付けては顔を出そうとする。


 彼をたった一人の男として愛しているのか、美芳には、今もって分からない。

 ただ、一対の夫婦だった二人の関係は、ある日を境に、「たった一人の皇帝」と「数多(あまた)いる妻の一人である皇后」に変わってしまった。


 女性との時間を公務と割り切っているように思えた夫は、(りゅう)常在(じょうざい)には、ごく自然に微笑んでいた。それを見て、美芳は自分でも意外なほどに胸が騒いだ。


 黙り込む彼女に、獅英(しえい)は不思議そうに瞬きを繰り返す。

 だが、彼は不意に目を細め、彼女の額に唇を落とした。



「……苦労を掛けるな」



 夫は決して、済まないと謝ることはない。


 それでも、彼は目を細め、正妻である美芳を真っ直ぐに見つめて言った。




「美芳。俺の皇后。──これからも、よろしく頼むぞ」




 夫に名を呼ばれたのは、いつ以来だろう。




(──獅英様)




 彼の名を呼ぶ度胸のない自分を、彼ならば笑って見逃してくれるだろうか。




(強く、なりたい)




 望むと望まざるとに関わらず、孤高の玉座に一人、腰を下ろすことになってしまった夫。それでも彼は自分の運命を呪わず、ただ自分が成すべきことだけを、力強く見据(みす)えている。


 気高い百獣の王に相応しい妻に、自分はなれるだろうか。




(なってみせる。……なってみせる)




「はい。……(こう) 美芳は、貴方様の妻ですから」





 彼女の答えに小さく微笑んだ夫は、やがてうとうとと微睡(まどろ)み始めた。



翠旺を「手放せそうにない」と思っていた皇帝・獅英の、決意の裏側を書きました。

清顕は「愛する人を近くで守る」ことを選び、獅英は「大切な人が自由に羽ばたくのを見守る」ことを選びました。

どちらが正しい、尊いということもなく、それぞれに悩み、考え抜いた末の答えだと思います。

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