【李寧国記 番外編】百獣の王
「お幸せにね」
輝くばかりの笑顔で頷いた少女は、後宮の門の手前で頭を垂れていた男性の元に駆け寄って行く。
その足取りは軽やかで、背中には翼が生えているのではと思うほど。
秋の光の中に消えていく一対の影を、黄 美芳は目を細めて見送った。
「……今日だったか。劉常在が後宮を出たのは」
気だるげに身体の向きを変えた夫を見下ろし、その身体に衾を掛けながら、美芳は小さく頷いた。どこか感傷的なその横顔に、胸が痛まないと言えば嘘になるだろう。
彼は鍛え上げた腕を伸ばし、美芳を寝台に迎え入れようとする。微かな躊躇いののち、美芳は夫の隣に身体を横たえた。
皇后に据えられて以降、夫は彼女の閨から遠ざかっていた。だが、近頃では時折、夜を共にするようになった。相手を務めることもあれば、今日の出来事などの他愛ない話をしたり、息子の成長を共に分かち合って笑ったりして、そのまま眠ることもある。
今日、夫の下級妃である──その振りをして後宮に潜入していた──劉 翠旺が、高 清顕という青年の妻になるため、後宮を出た。律儀な彼女は、世話になった妃嬪たちに順に挨拶をして回っていたようで、門を越えて行ったのは昼も過ぎた頃だ。
愛しい男を見つめる彼女の瞳は、それ自体が宝玉のようだった。高統括官も、妻となる女性をそれはそれは大切そうに見下ろしていて、後宮の妃嬪たちが揃って羨望の眼差しを向けたほどだ。
彼らは、一刻も早く夫婦になりたいと、冬の吉日を選んで契りを結ぶという。それまでの間は、彼女は実家に身を寄せるようだ。二人の未来に幸福が満ち溢れていることを、美芳も心から願っている。
彼女の夫は、自身の下級妃を下賜したことに、取り立てて関心を持っていなさそうに見えた。
だが、美芳は、夫が彼女を大切に慈しんでいたことを知っている。
「……どうした?」
彼女を腕の中に抱き、首を傾げる夫は穏やかな笑みを浮かべる。
美芳は思わず、小さな声で零していた。
「……よろしかったのですか? 彼女を行かせてしまって」
その声に、僅かでも嫉妬が滲んでいなかっただろうか。恨みが籠もっていなかっただろうか。
彼の視線を避けるように顔を背けた美芳の頬に、夫である獅英は、剣ダコが残る大きな手のひらで触れた。そのままゆっくりと上向かされ、息を飲むほどの美貌が間近に迫る。美芳は動揺を隠せなかった。
夫は眼前で小さく笑い、美芳に語り掛けた。
「……俺は別に、彼女に恋着していた訳ではないぞ?」
その笑顔は透き通っていて、強がっている素振りはない。目を瞬かせる美芳に、獅英は苦笑交じりに続けた。
「飾り気のない言葉や態度に、救われる思いはあった。あれのそばに居ると、呼吸が楽になるような。……でも、それだけだ」
「それは……」
それをあるいは、愛と言うのではないか。
思わず反駁しかけた美芳の鼻をキュッと摘み、獅英が悪戯っぽく微笑む。
「俺は、あいつがあるがままの姿で生きていてくれたら、それでいいと思っている。その隣にいるのが俺でなくとも、あいつが呑気に笑っていてくれるなら、それでいいと。あいつとどうにかなろうとか、これっぽっちも望んじゃいないんだ。
……あれは、皇帝の何でも屋たる祓魔だしな。任務があれば、いくらでも顔を見る機会はある」
そう。翠旺は後宮を去ったが、それは永遠の別離を意味するのではない。今のところ祓魔唯一の女官である彼女は、後宮内で皇帝を補佐するのに適任だった。
美芳はそれでも、その華奢な肩を震わせてしまう。
皇帝である夫に相応しくあれるよう、強くなろうと決意した。ただ、弱気の虫は彼女の心の奥底に住み着き、隙を見付けては顔を出そうとする。
彼をたった一人の男として愛しているのか、美芳には、今もって分からない。
ただ、一対の夫婦だった二人の関係は、ある日を境に、「たった一人の皇帝」と「数多いる妻の一人である皇后」に変わってしまった。
女性との時間を公務と割り切っているように思えた夫は、劉常在には、ごく自然に微笑んでいた。それを見て、美芳は自分でも意外なほどに胸が騒いだ。
黙り込む彼女に、獅英は不思議そうに瞬きを繰り返す。
だが、彼は不意に目を細め、彼女の額に唇を落とした。
「……苦労を掛けるな」
夫は決して、済まないと謝ることはない。
それでも、彼は目を細め、正妻である美芳を真っ直ぐに見つめて言った。
「美芳。俺の皇后。──これからも、よろしく頼むぞ」
夫に名を呼ばれたのは、いつ以来だろう。
(──獅英様)
彼の名を呼ぶ度胸のない自分を、彼ならば笑って見逃してくれるだろうか。
(強く、なりたい)
望むと望まざるとに関わらず、孤高の玉座に一人、腰を下ろすことになってしまった夫。それでも彼は自分の運命を呪わず、ただ自分が成すべきことだけを、力強く見据えている。
気高い百獣の王に相応しい妻に、自分はなれるだろうか。
(なってみせる。……なってみせる)
「はい。……黄 美芳は、貴方様の妻ですから」
彼女の答えに小さく微笑んだ夫は、やがてうとうとと微睡み始めた。
翠旺を「手放せそうにない」と思っていた皇帝・獅英の、決意の裏側を書きました。
清顕は「愛する人を近くで守る」ことを選び、獅英は「大切な人が自由に羽ばたくのを見守る」ことを選びました。
どちらが正しい、尊いということもなく、それぞれに悩み、考え抜いた末の答えだと思います。




