89話「故国、凱旋、振り払って」
フォーマルハウトの港から船と馬車を乗り継ぎ、数日。
視界に飛び込んできた王都ヴァルゴの白亜の街並みは、眩暈がするほどに穏やかだった。
整然と区画整理された石畳、道端に咲き誇る季節の花々、そして行き交う人々の屈託のない笑顔。潮の香りと焦げた石材の匂いに支配されていたエリダヌスとは、同じ世界とは思えないほどの断絶がある。
「……帰ってきたのね」
馬車の窓からその光景を眺め、私は小さく息を吐いた。
「お嬢様、顔が強張ってやすぜ。ここは戦場じゃねえ、自分んちだ。もっと楽にしなせぇ」
御者台から、ギエナの野太い声が飛んでくる。彼はまだ全身に包帯を巻いているが、特注の緩い外套でそれを隠し、不敵な笑みで馬を操っていた。
「……わかっているわ。でも、ここも別の意味での"戦場"でしょう?」
「へっ、違いねえ。腹を空かせたハイエナより、腹を満たした貴族様の方がよっぽど質が悪い。……アルト、準備はいいか?」
ギエナの問いに、私の隣で目を閉じていたアルトが静かに瞼を持ち上げた。
新調された黒い眼帯。その奥にある、ヴェルギウスの残光を宿した右目が、今は何を視ているのだろうか。
「はい。……ノクティア様。何があっても、俺が後ろに控えています」
以前のような気負った"守護"の宣言ではない。ただ当然の事実として、彼はそう言った。
馬車は王宮の巨大な城門を潜り、貴族たちが列を成す城内へと滑り込んでいく。私の帰還を待ち構えているのは、歓迎の調べなどではない。
功績を疑い、失態を数え、私という"姫"を引きずり下ろそうと画策する、冷ややかな視線の雨だ。
中央ホールの重厚な扉が開かれた瞬間、熱を帯びた沈黙が私を包んだ。
赤い絨毯の両脇には、王国の政を司る貴族たちがずらりと並んでいる。
「――これはこれは。グラスベル家の令嬢、ノクティア特使ではありませんか。無事なご帰還、何よりでございます」
その先頭に立つ男が、恭しく礼をしてきた。私は記憶を探る、確か、エリダヌスに発つ前の壮行会で、挨拶をされていたはずだ――。
「――カペラ侯爵、ごきげんよう。」
列の先頭で、カペラ侯爵がこれ見よがしに銀の扇子を広げた。その瞳には、隠しきれない侮蔑と、獲物を追い詰めた猟犬のような愉悦が宿っている。
確か、この人は"反姫派"の筆頭格だったはずだ。貼り付けたような、不気味な笑みが印象に残っていた。
「フォーマルハウトが帝国の"姫"によって壊滅的な被害を受けたと聞き、我ら一同、夜も眠れぬほどに案じておりました。……アケルナル様の拉致、そして晶潮館の崩壊。あちらの惨状を思うに、特使としての務めを果たすどころではなかったのでしょう?」
侯爵の言葉を合図に、周囲からクスクスと忍び笑いが漏れた。
「無理もありません。子供のお使いには少々、荷が重すぎたのでしょう。帝国を刺激し、友好国であるエリダヌスの怒りを買い、手ぶらで逃げ帰ってきた……。これでは特使どころか、王国の恥を晒しに行ったようなものですな」
「左様。連邦議会からの抗議文がいつ届くかと、戦々恐々としておりますよ」
次々と投げつけられる、棘を含んだ言葉。
この世界に来る前の私なら、顔を真っ赤にして俯き、涙を堪えていたかもしれない。けれど。
「――皆様、お揃いで。私の不在の間、随分とお口の筋肉を鍛えられていたようですわね」
私の口から出たのは、自分でも驚くほど冷徹で、透き通った声だった。
ピタリと、笑い声が止まる。私はカペラ侯爵の正面まで悠然と歩みを進め、視線を逸らさずに彼を見据えた。
「侯爵。お言葉ですが、情報は正しく仕入れるべきですわ。エリダヌス連邦が"怒っている"? いえ、彼らは今、かつてないほどの感謝と畏怖を我がヴァルゴ王国に抱いておりますわよ」
「な……何を馬鹿な。あの傲慢な人魚たちが感謝だと?」
私は背後に控えていたアルトに合図を送った。
彼は無言で、厳重に封印された筒の中から一通の羊皮紙を取り出し、私の手に委ねる。それは、生存したエリダヌス連邦議会の全議員、そして残された有力部族長たちの署名と魔力印が刻まれた、正式な外交文書だ。
「これをご覧なさい。エリダヌス連邦は、長年我が国を苦しめてきた"大星潮条約"の関税および資源供給制限を、全面的に緩和することに同意いたしました、とありますが?」
謁見の間が、氷を投げ込まれたように静まり返った。
「緩和……だと? そんなはずはない! あいつらが、喉元まで食い込んでいた利権を手放すはずが――」
「手放させたのです。私たちが、彼らの都を、彼らの命を救ったからです」
私は一歩、侯爵に歩み寄る。硝子の魔法で鍛えられた私の精神は、相手の表情の微かな揺らぎ、動揺の匂いを正確に捉えていた。
「帝国の"姫"が街を焼き、守護者アケルナルが連れ去られた。その未曾有の危機に、最後まで踏み止まって戦ったのは誰か? 逃げ出したガーランドの使節団ではなく、このヴァルゴ王国の特使団です。連邦は今、アケルナルという最強の盾を失い、喉元に刃を突きつけられている。……そこで彼らが選んだのは、これまでの傲慢を捨て、王国に縋ることでした」
私は羊皮紙を高く掲げ、広間に響き渡る声で宣言した。
「本日、私はこれまでの不平等な条約の撤廃、および――ヴァルゴ王国とエリダヌス連邦の"相互防衛関係"の締結をここに報告いたします。これにより、エリダヌスは実質的に、我が王国の勢力圏内へと組み込まれました」
――ガシャン、と誰かが手にした杖を落とす音が響いた。
貴族たちの顔から、血の気が引いていく。"手ぶらで帰ってきた"どころではない。王国の歴史上、どの外交官も成し得なかった、エリダヌスを事実上の"保護国"とするという、天をも穿つ大戦果。
「そ、そんなデタラメを……! 証拠はあるのか!? 文書が偽造でないという保証が――」
「侯爵、見苦しいですわよ。この文書にはエリダヌスの議長代理、そして生存した全閣僚の署名がございます。偽造など不可能ですわ。……それとも、王国の繁栄を約束するこの条約が、貴方にとっては不都合なのですか?」
「……っ!!」
カペラ侯爵が絶句し、一歩後退する。周囲の貴族たちも、手のひらを返したように動揺し、互いに顔を見合わせ始めた。先ほどまで私を嘲笑っていたその瞳に、今は隠しきれない"恐怖"が宿っている。
私は、冷ややかに口角を上げた。
「お聞きになりたいことは、それだけかしら? ならば、陛下への報告に向かわせていただきます。……道を開けていただけますか、侯爵?」
カペラ侯爵は、悔しさに顔を歪めながらも、震える手で道を開けた。
私は、その間を堂々と通り抜ける。背中を預けるギエナの足音と、アルトの確かな気配。かつての弱いお嬢様は、もういない。私は、一人の"姫"として、この玉座の前に立っている。
視線を上げると、玉座に座る国王陛下の傍らに、見慣れた、けれど今はひどく愛おしい人影があった。
「――お父様、いらしていたんですね」
グラスベル伯爵。私の帰りを誰よりも案じていたはずの父が、国王と共に私の姿を待っていた。その瞳には、娘の無事を確認した安堵と、私の変貌ぶりに驚きを隠せない複雑な色が浮かんでいる。
私は、父と国王の前で深く、優雅に礼をした。
「陛下。そしてお父様。ただいま戻りました」
王都ヴァルゴへの凱旋。
それは、さらなる激動の半年間への、静かな、けれど苛烈な始まりの合図だった。




