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88話「さよなら、フォーマルハウト」

 フォーマルハウトの港に、白々と朝日が昇る。


 一週間前のあの夜、炎と悲鳴に包まれていた街は、今、復興の槌音と潮騒の中にあった。崩れた晶潮館のシルエットが朝日に長く伸び、波間には人魚兵たちの代わりに、復旧作業にあたる人間の兵士たちの小舟がいくつも揺れている。


 石畳の埠頭に、一台の馬車が停まっていた。ヴァルゴ王国の紋章を刻んだその馬車の傍らで、私たちはその時を迎えていた。



「もう行くのね。王国特使様は、随分とせっかちなこと」



 扇子を優雅に揺らしながら、ミラクが皮肉めいた笑みを浮かべてこちらを見ていた。彼女の隣には、幾枚もの湿布の匂いを漂わせながらも、背筋を正したバナビーが静かに控えている。


「何言ってるの、ミラク。長居しすぎたくらいよ。連邦議会(おじさまたち)から預かった重たい条約文書(おみやげ)もあるし、私のバカンスは、まだしばらく先になりそうね」


 私は努めて明るい声で返した。


 ミラクの瞳の奥に、隠しきれない寂寥の影がよぎる。この一週間、私たちは共に"理不尽"と戦い、背中を預け合ってきた。


 まったく、町中のレストランで喧嘩をしていた頃が、酷く懐かしく思えてくる。


「ミラク、あなたこそどうするの? アルゴラの件……帝国の方で、面倒なことになったりしない?」


 私の問いに、ミラクはふっと視線を落とした。彼女が纏う空気は、かつての傲慢な令嬢のものではない。どこか危うく、それでいて気高い覚悟に満ちている。


「……そうね。私はしばらく、ここエリダヌスでほとぼりが冷めるのを待つつもりよ。いくら派閥が分かれているとはいえ、同じ帝国の"姫"をこの手で葬ってしまったんですもの。あちらの連中にとって、私は既に裏切り者の筆頭だわ」


 彼女は自嘲気味に笑い、それから不安げに目を伏せた。


「……お祖父様のことは心配だけれど、今の私が帝国に戻ることはできない。無駄死にするだけだわ。幸い、アルゴラ討伐の功績があるから、この街から追い出されるようなこともないし――しばらくは、アケルナルが不在のこの街を守りながら、先のことを考えるつもりよ」


 帝国は、もはや伏魔殿だ。裏切りを許さぬその場所に、今、彼女が戻ることはできない。


 その時、沈黙を守っていたバナビーが一歩前に出た。


「セプテニア公……ミラク様のお祖父様のことなら、ご心配は要りますまい。あのお方は、帝国が今よりも深い混沌にあった頃から、あの伏魔殿で生き延びてきた怪物でございます。……ミラク様がここでご自身の道を切り拓かれることこそ、あのお方の望みでありましょう」


「バナビー……。そうね、お祖父様を信じるわ」


 ミラクは力強く頷き、再び私に向き直った。その瞳には、射抜くような鋭さが戻っていた。


「ねえ、ノクティア」


 ミラクの声が、真剣なトーンに変わる。


「リラの報せは聞いたでしょ? 半年後に決戦が迫っているとして――あなたは、これからどうするつもりなの? たった半年で、あのアケルナルを容易く無力化した"マッチ売りの少女"や、あのバケモノたちが蠢く帝国に対抗できるような力を、本当に揃えられるの?」


 それは、現実的で、かつ最も困難な問いだった。


 ヴァルゴ王国一国の力では、到底太刀打ちできない。エリダヌス連邦も、今はまだ傷ついた小鳥に等しい。


「……私に、ひとつ考えがあるの」


 私は、朝日に輝く水平線の向こうを見つめた。


 そこには、あの鏡の迷宮で見せた、不遜で圧倒的な実力を誇る"皇太子"の国がある。


「今回の件で、帝国急進派はエリダヌスだけでなく、他国にとっても共通の敵であることがはっきりしたわ。だから……こっちも、大きな力を味方につける」


「 ……正気? あなた、実はあの夜、酷く頭を打っちゃったりしたんじゃないの?」


 ミラクは呆れたように肩を竦めたが、その表情には微かな期待が混じっていた。


「でも、いいわ。もしあなたがそれを成し遂げるなら、私もエリダヌスを立て直して、最高の"鏡"を揃えておいてあげる。……次に会う時は、もっと強くなりなさい、ノクティア」


「ええ、あなたもね、ミラク」


 馬車の御者台では、ギエナが「そろそろ潮時だぜ、お嬢様」と声をかけてきた。


 隣には、右目の眼帯を新調したアルトが、背筋を伸ばして私の帰りを待っている。シャウルは既に馬車の中で、エリダヌスの果物を食べ納めとばかりに頬張っているようだ。


「……さよなら、ミラク。バナビーさんも、どうかお元気で」


「さよなら、ノクティア。……精々、退屈なエピローグにならないよう、足掻いてみせることね!」


 馬車がゆっくりと動き出す。


 石畳を叩く馬蹄の音。


 振り返ると、ミラクとバナビーの姿が、どんどん小さくなっていく。


 ミラクは、馬車の影が街の曲がり角に消えるまで、ずっと、ずっと手を振り続けていた。

 

 フォーマルハウトの街並みが、やがて視界から消える。


 アケルナルという守護神を失い、それでも明日へと歩み始めた、水の都。


 私の胸の中で、藍色の硝子のブローチが、微かに熱を帯びた。


 硝子の靴を履き、魔法の時間を超えて、私たちは次なる舞台へと向かう。


 半年。


 それは、絶望が熟成されるまでの時間か、それとも希望が牙を研ぐための猶予か。


「……まずは、ヴァルゴ王国(ホーム)に戻りましょう」


 私は、揺れる馬車の中で静かに呟いた。


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