87話「猶予」
三日前、私は崩壊を免れた議会の臨時庁舎へと呼び出された。
王国の特使として、何らかの責任を問われるのではないか――。鏡の迷宮を出現させたアルゴラが帝国出身であり、私たちがその元凶を倒したとはいえ、街の損壊を招いた事実に変わりはない。
そんな不安を抱いて出頭した私を待っていたのは、予想だにしないほどの、深い、深い感謝だった。
「連邦政府の重鎮たちは、涙を流して私たちに礼を言ったわ。……もし私たちが、そしてあなたたちが戦っていなければ、フォーマルハウトはあの夜、地図から消えていた。エリダヌスという国そのものが、壊滅していただろうって」
その功績を認められ、王国と連邦の間で長年燻っていた貿易条件の緩和――つまり、関税の大幅な引き下げと資源供給の優先権が、正式に認められたのだ。
「……そりゃあ、上出来だ。お嬢様も、これで大手を振って王都へ帰れるわけだ。国王陛下も、腰を抜かすんじゃねえか?」
「でも、話はそう簡単じゃなかったのよ、ギエナ」
私は、手元にある書簡の写しをベッドに置いた。
エリダヌスが提示してきたのは、感謝の印としての緩和ではなく、死に物狂いの"交換条件"だった。
「エリダヌスは、ヴァルゴ王国に対して"相互防衛関係"の締結を求めてきたわ」
"相互防衛"という言葉に、ギエナの視線が鋭くなる。
「そーごぼーえー? なんか、難しい話っすか?」
シャウルが頭を捻る。少し噛み砕いて話すべきだったか。
「……分かりやすく言うと、今後、連邦が襲われることがあったら、王国から援軍を出す。逆も然りよ」
「つまり、連邦がケンカ売られたら、王国も一緒にケンカする……ってことっすか?」
「まあ、そんなところね。帝国という脅威に対して、力を合わせて立ち向かう。それが、条約緩和の絶対条件よ」
「……建前は立派だが、要するにアケルナルっていう最強の用心棒を失ったから、今度は王国の"姫"に守ってくれって縋り付いてきたわけだ。……現金なもんだぜ」
ギエナが鼻を鳴らす。
そうなのだ。エリダヌスは独立独歩の気風が強い国だったが、アケルナルを失った今、単独で帝国に抗う力はない。だからこそ、これまで見下してきた王国に、助けを求めてきたのだ。
「……ガーランドの使節団が、混乱に乗じて早々に離脱していたのも大きかったわね。あいつ――リゲル皇太子がこの場に残っていたら、『王国の前に連邦を切り分けよう』なんて言い出しかねないもの」
「そりゃあ、傑作だ。お嬢様も随分と図太くなったようで、何よりだぜ」
ケラケラと笑うギエナ。
確かにそうかもしれない。けれど、今の私は知っている。誰かを守るためには、時にこの冷酷なチェス盤の上に立ち、相手の弱みを握ってでも道を作らなければならないことを。
それが、あの夜に私たちが流した血に対する、唯一の責任だと思ったから。
「……でも、アケルナル様は連れて行かれてしまったんですよね?」
アルトが、沈痛な面持ちで口を開いた。
「帝国は、彼女の力を狙っている。もし彼女が完全に操られてしまったら、帝国は無敵の軍勢を手に入れてしまう……。すぐにでも、ここへ攻め込んでくるんじゃないでしょうか」
病室に、冷たい緊張が走る。
"マッチ売りの少女"が最後に見せた、圧倒的な暴力。そしてアケルナルの拉致。
私たちの手元に残された、勝利の果実は、あまりに危うい薄氷の上に載っている。
(――それでも、悲観してばかりはいられない)
私がアルトに向けて、口を開こうとした、その時だった。
カタ、と窓の縁で乾いた音が響いた。
見れば、そこには一羽の小さな鳥が止まっていた。
鏡の迷宮で私たちを導いた――"小夜啼鳥"だ。
鳥は、その小さな嘴に一枚の古びた羊皮紙を咥えていた。
「お嬢様、その鳥は?」
シャウルが警戒を解き、窓を開ける。
私がそっと手を差し出すと、鳥は紙を預け、一度だけ美しく囀って空へと飛び去っていった。その羽音は、まるで静かな夜の終わりのようだった。
「……これは、たぶん、リラからの報せよ。彼女、あれから独自に帝国の動向を探っていたみたい」
「なんて書いてあるんだ?」
ギエナが身を乗り出す。私は、その紙を噛みしめるように読み上げ、最後に一息ついた。
「……半年。……アケルナルは、そのくらいの間なら、独りで粘ってくれるはずだって」
アケルナルは、連れ去られる間際に、自らの"自我"を深い眠りに落とした。帝国が彼女の魔力を完全に支配するには、その強固な精神の檻をこじ開ける必要がある。
そして最強の"姫"である彼女の抵抗を完全に無効化するには、少なくとも半年という月日が必要なのだという。
「……半年、か。長いのか短いのか、わからねえな」
「短い。……絶望的に短い時間よ」
私は窓の外、朝日を浴びるフォーマルハウトの街並みを見据えた。
この半年の間に、私たちは王都に戻り、エリダヌスとの条約をまとめ、軍備を整えなければならない。そして何より、私自身がもっと強くならなければならない。
失われた"人魚姫"を奪還するために。
そして、あの少女がマッチを擦り、世界を焼き払うのを阻止するために。
「……私たちの戦いは、ここからが本番なの。……ギエナ、アルト。……体、すぐに治してもらうわよ。おじさんだからって甘えてる暇はないんだから」
「へっ、仰せのままに、お嬢様。……この腰の痛みが引いたら、すぐにでも獅子の真似事を見せてやりまさぁ」
「……はい、ノクティア様。次は、必ず守り抜きます」
病室の空気が、重い沈黙から、静かな決意へと変わる。
朝日が、私たちの影を床に長く落としていた。
傷跡だらけのこの街で、私たちの物語は、次の舞台に向かって力強く拍動を始めた。




