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86話「夜明けと姫のいない街」

 嵐のような夜が過ぎ、フォーマルハウトに朝が訪れたのは、もう一週間も前のことだ。


 あの日、鏡の迷宮が砕け散り、アルゴラという名の悪夢が霧散したのと時を同じくして、街の各地で暴虐の限りを尽くしていた帝国の工作員たちは、潮が引くように退却していった。


 組織的な撤退。それは、彼らの目的が"略奪"ではなく、もっと根源的な"何か"であったことを裏付けていた。


 けれど、後に残されたのは、あまりに深い、あまりに生々しい傷跡だった。


 街の象徴であった晶潮館は、中央棟から東棟にかけて無惨に崩壊し、かつての威容を失っている。


 崩れた石材が運河を埋め、かつて美しい水の都と謳われた情景は、至る所で瓦礫の山へと変わり果てていた。


 それ以上に深刻だったのは、人々の心の支えであり、文字通りこの街の"守護神"であったアケルナルの不在。


 彼女が連れ去られたことで、エリダヌス連邦の兵力の中核を成していた人魚兵たちは、その超常的な力を急激に失いつつあった。


 運河を泳ぐ人魚兵たちの鱗からは、瑞々しい輝きが失われ、その目は淀んでいる。彼らの力の源は、アケルナルという名の守護神がこの地に存在することそのものにあったのだ。


 特にこの都・フォーマルハウトは、水の恵みと守護に依存した構造をしていたため、その影響は計り知れない。数少ない人間の兵士たちで防衛部隊を再編しようとしているようだが、混乱が収まり、人々の怯えが消えるまでには、まだ相当な時間が必要だろう。


 私は、仮設の診療所として使われている建物の一室に向かって、重い足取りを進めていた。


 窓から差し込む陽光は、皮肉なほどに穏やかで、一週間前のあの凄惨な光景が嘘のようだった。廊下には消毒薬の匂いと、時折漏れる負傷者たちの呻き声が満ちている。


「……失礼するわね」



 扉を開けると、そこには、いつもの――いや、少しだけ変わった"仲間たち"の光景があった。



「あだだだ……。おい、お嬢様、この薬もっとマシな匂いにならねえんですかい。鼻が曲がっちまいますぜ。昔、戦場で嗅がされた毒薬の方が幾分マジだったっつーかよ……」


 ベッドの上で全身を包帯でぐるぐる巻きにされたギエナが、顔をしかめてぼやいていた。


 かつて"不落の獅子"の背中を追った男は、今や動くたびに関節から悲鳴を上げる満身創痍の怪我人だ。それでも、その軽口だけは衰えていない。


「贅沢言わないっすよ。ギエナさんは一週間も寝てたんだから、これくらい我慢するっす。ほら、剥いてあげたっすから」


 そんなギエナに毒づきながら、ベッドの端でシャウルが器用にリンゴの皮を剥いていた。そして、剥き終えた実を、迷いなく自分の口へ放り込む。


「おい、シャウルよう。なんでお前が食ってるんだ?」


「そんなに喧々しなくても、ギエナさんの分もあるっすよ、ほら」


「それ、皮じゃねえか! 実ぃ寄越せ、実!」


 いやっす、と、彼女は残りの果実も頬張った。ギエナが呆れたように口を開く。


「……シャウル。それ、病人へのお見舞いじゃないの?」


 私が思わず苦笑しながら尋ねると、シャウルは頬を膨らませたまま、以前よりもずっと柔らかくなった表情で肩を竦めた。


「毒見っすよ。お嬢様も、食べるっすか? 甘酸っぱくて、目が覚める味っす」


「ふふ、遠慮しておくわ」


 一週間前。


 あの鏡の迷宮で、私たちはそれぞれが死の淵を徨った。


 ギエナは命の薪をくべて獅子の如く戦い、アルトも、街のどこかで力の限り剣を振るったという。


 そして、シャウルもまた――"嘘"を見抜く力で、敵に立ち向かってくれたのだと、そう、ミラクから聞いた。


 でも、そんなことよりも。


(――今回の戦いも、誰かが欠けるかもしれなかった)


 そんな運命を越え、全員が生きて、この光を浴びている。


 あの、地獄の砦では成し得なかった、その事実だけで、胸の奥が熱くなる。


 けれど、窓辺のベッドで物憂げな表情を見せるアルトの瞳には、まだ消えない翳りが落とされていた。


「……アルト、まだ痛む?」


「いえ。……体はもう、驚くほど軽いです。ただ、街が、暗いですね」


 アルトが視線を向けた先。


 窓の下、港へと続く道を行き交う人々は、皆一様に俯き、足早に歩いている。


 アケルナルという"象徴"を奪われた喪失感は、街全体を深い停滞の中に沈めていた。あちこちで焚かれている祈りの香が、重苦しい煙となって空に停滞している。


「お嬢様、そんなに凹むもんじゃねえよ」


 ギエナが、痛む体を無理やり動かして、不敵な笑みを浮かべてみせた。


仕事(ミッション)は、きっちり成し遂げたんだろ? 例の、"大星潮条約"の緩和ってやつさ。おじさんはそのために命を張ったんだ。その価値くらいは、あったんだろう?」


 "大星潮条約"。


 そう、あの混乱で有耶無耶になりそうになっていたが、そもそも私たちは、その"首輪"を外すために、ここまでやってきたのだ。


 ならば――そうか。その顛末を話さないわけにもいかないだろう。


「……ええ、まあね。少し長い話になるけど、いい?」


 皆が頷くのを確認してから、私は、この数日の間にエリダヌス連邦政府と交わした"交渉"の内容を話すことにした。


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