85話「"よかったですね"」
アルゴラが霧散し、鏡の迷宮が崩壊した後の議場には、不気味なほどの静寂が満ちていた。
私とミラクは、震える足で崩れた石畳を蹴り、議場の最奥へとひた走った。
そこには、アケルナルが座す"聖域"がある。つい昨日、リラと共に訪れた、清浄な場所。
しかし、今やそこからは――焦げ付くような悪寒が漂ってきている。
「……なに、なんなの、これ……!?」
慄くようなミラクの声が、不安気に私の耳に届く。私も同じような言葉を吐きたかったが、グッと飲み込んだ。
入り口には、石鹸の泡が重なり合ったような、虹色に輝く半透明の結界が展開されている。
しかし、以前見たときには艶々と輝いていた表面が、今は所々が萎び、力なく波打っている。
まるでそれは――この結界を張った主の、生命力を暗示しているかのように。
「……っ、アケルナル!!」
私は祈るような思いでその結界を突き抜けた。
パチン、と小さな泡が弾ける音がして、視界が開ける。
そこは、晶潮館の喧騒とは切り離された、清冽な水の匂いが漂う円形の広間。
記憶の通り、中心には大理石のバスタブがあり、そこから溢れ出す水が、床一面を薄く覆っていた。
けれど、そこに満ちていたはずの"平穏"は、跡形もなく蹂躙されていた。
水の匂いに混じって、鼻を突くのは、すべてを焼き尽くした後に残る"焦げた灰"の匂い。
「――ほう。遅かったのですね、あなたたち」
冷徹で、落ち着き払った声。
バスタブにぐったりと凭れかかるアケルナル。
その傍らに立ち、まるで愛でるべき獲物を見下ろすように、静かに、優雅に佇んでいるのは――。
古い頭巾を被り、手元で小さな箱を弄んでいる少女。
帝国の"姫"の一人。人々に絶望の火を灯す、どこまでも暗い目をした――"マッチ売りの少女"だった。
「アルゴラは、逝きましたか……。まあ、あの子らしい幕引きだったのでしょう。夢の終わりには、相応の代償が必要ですから」
彼女は振り返りもせず、ただ静かに言った。その全身から漂うのは、炎の熱気ですらない。すべてを無に帰した後の、虚無に等しい冷たさだった。
「アケルナルに、何をしたの……!?」
私は硝子の剣を構え、震える声で叫んだ。
アケルナルの瞳には光がなく、その美しい鱗は乾燥し、ひび割れ始めている。最強と謳われた彼女から、その強大な魔力が、まるで底の抜けた器のように流出していた。
「なあに、変なことはしていませんよ。ちょっとだけ、私の"マッチの火"を見てもらっただけです。彼女が見たかったもの。彼女が守りたかったもの……。それらすべてが灰になる光景をね」
「そんな……アケルナルは、最強の"姫"なのよ! あなた一人に、これほどあっさりと屈するなんて……!」
ミラクもまた、鏡の刃を構えながら歯噛みする。
その問いに、少女は初めてこちらを向き、微かな、憐れむような笑みを浮かべた。
「最強、でしょうね。私も、真っ向から戦えば勝ち目はありません。……この"人魚姫"という物語を、力ずくで書き換えることなど、帝国のいかなる軍勢を以てしても不可能です」
彼女は、ぐったりとしたアケルナルの髪を愛おしそうに撫でた。
「ただ――彼女は優しい。優しすぎるのです。もし彼女が本気で私と戦えば、背後の議場も、逃げ惑うあなたたちも、このフォーマルハウトという街そのものが、彼女が放つ魔力の奔流に巻き込まれ、海の底へと沈んでしまう。……彼女はそれを、何よりも恐れた」
「……っ」
「彼女の良心は、彼女自身の最強の力を封じ込める、呪いそのものだった。私はただ、その隙間に、一本のマッチを灯したに過ぎません。彼女が優しさを捨てられない限り、私には勝てない」
その口調は淡々としていながら、絶対的な"悪"の論理に満ちていた。
自分の強さゆえに、誰も傷つけられない。
アケルナルの優しさと高潔さにつけ込んだ――ドス黒い、悪意がそこにあった。
「……アケルナルを、返しなさいッ!!」
怒りを容れる器が、限界を越えた。
私はミラクと視線を交わし、アルゴラを打ち破った合体魔法を再び展開しようとした。
「ミラク!!」
「わかってるわよ! ――合作、"硝子装の――"」
だが、私たちの物語が形を成し、屈折した光が少女を閉じ込めようとするよりも早く。
彼女は、手元のマッチを一本、箱の側面に滑らせた。
――シュッ。
小さな、あまりに小さな火が灯る。
刹那、私たちの視界は、爆発的な"赤"に塗り潰された。
「熱い……!? あ、ああああああッ!!」
ミラクが悲鳴を上げる。
それは単なる炎ではない。私たちの"意志"そのものを直接焼き切るような、理不尽なまでの破壊の熱量。
アルゴラの迷宮を打ち破った硝子の騎士たちが、具現化する間もなく蒸発し、鏡の破片は溶け落ちて液体となって床を滑る。
「未完成の合作など、今の私の前では、湿った焚き木も同然です」
少女が腕を振るうと、立ち上った黒煙が巨大な蛇の形を成し、私たちを正面から吹き飛ばした。
ドォォォォンッ!!
聖域の壁に叩きつけられ、私は肺の中の空気をすべて吐き出した。
硝子の剣が砕け散り、指先一つ動かせない。隣ではミラクもまた、溶けかかった鏡の破片の中で倒れ伏していた。
アルゴラとの死闘で消耗していたとはいえ、あまりにも、あまりにも実力差がありすぎる。
「……さあ、最強の"姫"よ。もう目を開けなさい。あなたの優しさで、世界を焼く準備は整いました」
少女は倒れた私たちに興味を失ったように、アケルナルを強引に立ち上がらせた。
「手始めにこの街を。そして、私たちから物語を奪い、傲慢に繁栄を謳歌してきたエリダヌス連邦を滅ぼしましょう。……あなたのその、慈悲深い力を使って」
「…………」
アケルナルは、人形のように立ち尽くしていた。
だが、その身体からはアンタレスの指示に従うかのように、議場全体を飲み込もうとする膨大な魔力が脈動し始めている。
けれど、魔法は発動しない。
「……なるほど、自分の"声"を――自我を封じ込めて、私の指示に抗っているわけですか」
少女は僅かに眉を顰めた。
「自分を抜け殻にすることで、魔法の発動を遅らせている……。ふふ、最後の最後まで、往生際の悪い優しさだ。これは、一筋縄では行かなさそうですね。……"教育"が必要です」
「待って……っ! 行かせない……!」
私は血を吐きながら、少女の足元に手を伸ばした。
だが、彼女はそれを見下ろすことさえせず、アケルナルの肩を抱くようにして寄り添った。
「硝子の"姫"、それに、鏡の"姫"。よかったですね……今回は、あなたたちの勝ちでいいですよ。アルゴラを倒し、私の時間を少しだけ奪った。……その健闘に免じて、今は見逃してあげましょう」
少女の周囲に、黒い火の粉が舞い上がる。
空間が、熱波によって蜃気楼のように歪み始めた。
「私はそう遠くない未来、この世の全てを焼き払います。……あなたたちが愛したこの街も、その醜い平和も、すべてが私の物語の一部となる。灰となって、私の暖を取るための焚き木になるのです」
「……そんなこと、させ、ない……っ!」
「それが嫌なら、止めてみなさい。私たち"姫"は、物語を書き換えられる存在なのだから。……次にあなたたちの物語が交わる時、それは希望の朝か、それともすべてが終わった後の、冷たい灰の夜か。楽しみにしていますよ」
少女が最後の一本のマッチを擦る。
その輝きが最高潮に達した瞬間、爆発的な熱風が私たちを襲った。
「ま、待って……待ちなさい!!」
ミラクの叫び。
けれど、視界を塞いだ煙が晴れたとき、そこにはもう、誰の姿もなかった。
バスタブから溢れ出した水は、床の上で赤黒い灰を浮かべて静まり返っている。
アケルナルの不在を証明するように、聖域を護っていた泡の残骸はパリンと音を立てて完全に消失した。
窓の外。
戦場となったフォーマルハウトの街並みに、白々と、残酷なまでに美しい朝日が差し込んでくる。
けれど、私たちの心にあるのは、勝利の余韻ではなかった――。




