84話「いつかは必ず終わる夢」-後
「……ミラク、今よ。もう一度……合わせ鏡を!」
「……ええ! あんたに全てを賭けるわ、ノクティア!!」
ミラクが、残されたすべての魔力を振り絞り、戦場に散らばっていた無数の鏡の破片を、アルゴラの周囲へと一気に集束させた。
ジャバウォックが騎士団を蹂躙し、私たちの敗北が決定づけられようとした、その瞬間。
アルゴラの全方位に、巨大な"合わせ鏡"の円環が形成された。
「……え? 何、これえええ……?」
アルゴラが不思議そうに首を傾げた。
その瞬間、私は自らの硝子の魔力を、鏡と鏡の"隙間"へと流し込んだ。
単なる反射ではない。
私の硝子が持つ透過と屈折の特性を、ミラクの無限反射に同期させる。
「――これが、私たちの本当の魔法よ。合作、"零時の万華鏡"!!」
◆◇◆
いちど、瞬きをすると。
魔法の鏡だったはずのそれは、何の変哲もない、普通の鏡に戻っていました。
割れた鏡の破片が、いくつもいくつも、少女の顔を映します。
――壊れてしまえば、覚めるのです。
覚めない夢など、ないのです。
◆◇◆
パリンッ、と。
世界の均衡が崩れる音がした。
アルゴラの視界が、一瞬にして極彩色の幾何学模様に塗りつぶされる。
それはジャバウォックも、トランプの軍勢も存在しない、ただ"自分"だけが無限に反復される、光の牢獄。
「……あ、あ、ああ……?」
アルゴラが目を見開く。
万華鏡の中心。
ノクティアの硝子によって透過率を極限まで引き上げられた鏡の壁には、彼女が直視することを拒み続けてきた
"真実"が、残酷なまでの鮮明さで映し出されていた。
――反射し、増殖する、孤独な少女の顔。
――震える、小さな肩。
――そして、地下の牢獄で、薄汚い布切れを抱きしめながら、泣き疲れて眠りにつく自分自身の姿。
「いやだ……! 私はアリス! 私は、お茶会をしてるの! 私は、誰からも愛される、物語の主人公なのよぉぉぉッ!!」
アルゴラが叫ぶ。
だが、その叫び声すらも、幾重にも重なる鏡面に反射し、自分自身の醜い拒絶の声となって彼女に突き刺さる。
現実を否定すればするほど、鏡の中の自分は鮮明になり、逃げ場を失っていく。
無敵だった彼女の想像力が、自分自身という"現実"の重みに耐えきれず、メキメキと音を立てて崩壊し始めた。
「……目を開けなさい、アルゴラ。……お茶会は、もう終わりよ」
私は、光の牢獄の中心へと踏み込んだ。
万華鏡の屈折を抜け、無防備に立ち尽くす少女の目の前へ。
私の右手には、灰色に輝く硝子の刃が握られていた。
それは、私の中に唯一残る、強さの象徴を具現化したような、冷たく鋭利な一撃。
「……じゃあね、アルゴラ。……次、目が覚めた時は……本当の自分を、愛してあげて」
私は、彼女の胸元。
膨大な魔力が渦巻く"物語の心臓"へと、渾身の力で硝子の針を突き立てた。
グサリ、という。
嫌なほどに生々しい、肉を裂く感触が掌に伝わってきた。
「……ぁ……っ……」
アルゴラの瞳が、大きく見開かれた。
その瞬間の彼女の瞳には、狂気ではなく、ただの少女としての"驚き"が宿っていた。
――いたい。
――あつい。
――くるしい。
彼女の脳が、心が、魂が。
忘れていた"肉体の感覚"が怒涛のように押し寄せる。
血の鉄臭さ。傷口から奪われていく体温。
夢の世界では、痛みなど存在しない。
傷を負えば陶器の破片へと変わり、血が流れれば紅茶へと変わるはずだった。
けれど、今、彼女の胸から溢れ出しているのは、間違いなく彼女自身の命を繋いできた、温かく赤い、現実の色だった。
「……あ、が……あ、ああ……っ!」
死の恐怖。
生物として逃れられない、絶対的な終わり。
その実感が、アルゴラの深層心理にこびりついていた"目覚めたくない"という呪いを、粉々に打ち砕いていく。
パリンッ、パリン、パリンッ!!
辺り一面を覆っていた鏡の迷宮が、悲鳴を上げるようにして砕け散っていく。
想像の怪物は霧散し、トランプの兵士たちはただの紙屑へと戻り、極彩色の虚飾はすべて、冷たい夜の空気へと溶けていった。
後に残されたのは、燃え盛る本来の議場の景色。
そして、私の腕の中に崩れ落ちた、一人の小さな少女の身体だけ。
「……あ、は……。……お姉様、に……褒めて、もらいた、かった……なぁ……」
アルゴラの身体が、足元から静かに、光の粒子となって消え始めていた。
物語を完結へと導かれた"姫"の末路。
それは、現実という過酷な世界に居場所を持たぬ者が、あるべき虚無へと還っていくような、ひどく穏やかで、絶望的な幕引きだった。
彼女は最後に、私を見て、ふっと、あどけない笑みを浮かべた。
「……ああ、おかあさん、おはよ、う……」
その呟きを最後に、アルゴラという少女の存在は、この世界から完全に消失した。
静寂。
炎の爆ぜる音だけが響く議場で、私たちはしばらくの間、動くことができなかった。
勝利の喜びなど、どこにもない。
ただ、一つの物語を殺してしまったという、重く冷たい感触だけが、私たちの掌に残っていた。
「……終わったのね。……本当、に」
ミラクが、膝を突き、荒い息を吐きながら呟く。
私もまた、砕け散った硝子の刃の感触を確かめるように拳を握り、顔を上げた。
「――ええ、アルゴラは片付けた。でもまだ、終わっていないわ」
ともすれば、その場に竦んでしまいそうな手足に鞭を打ち、私は議場の奥へと駆ける。
まだ、倒すべき敵が残っている。
まだ、守るべき相手が残っている。
そして、まだ――嫌な胸騒ぎが、消えない。
「……っ、無事でいて、アケルナル……!」
私は駆ける。一歩遅れて、ミラクがついてくる気配がした。
この先に、何が待っているのか。頭蓋の内側で、嫌な記憶が、鼻先に僅かに香った焦げ臭さと共に、呼び起こされる。
(どうして今、こんなことを思い出すの――?)
私の脳裏に過っていたのは、燃え盛り、灰に還っていく、生家の景色だった――。




