81話「嗤う少女」
押し開いた議場の扉の向こう側には、私たちが知っているはずの"会議場"は存在しなかった。
視界を埋め尽くすのは、濃密な、肺の奥まで侵食してくるような完全なる暗闇。かつて列強諸国の首脳陣が集った豪華絢爛な円卓も、高い天井も、すべてがアルゴラの放つ"鏡の迷宮"の深淵に呑み込まれている。
聞こえるのは、どこか遠くで硝子が擦れ合うような不気味な音と、自分の心臓の音だけだ。
「……前が見えないわね。ノクティア、離れないで」
隣でミラクが鋭く囁く。彼女の周囲に展開された"七人の虚人"が、淡い白銀の燐光を放ち、かろうじて周囲数メートルを照らし出していた。
私もまた、生み出した硝子の剣を掲げ、淡い光を灯す。夜の到来と共に目覚めた私の硝子の魔力が、闇の中に青い光の筋を引いた。
私たちは背中合わせになりながら、一歩ずつ慎重に奥へと進む。
不意に、足元に柔らかく、しかしどこか重い感触があった。
「――っ!?」
視線を落とすと、そこにはエリダヌス連邦議長が、血溜まりの中で冷たくなっていた。かつて、エリダヌスの安全を声高に叫んでいた、その瞳は、驚愕に見開かれたまま動かない。
その光景に、一瞬だけ思考が停止した。
その隙を、暗闇が逃してはくれなかった。
「危ない、伏せてッ!」
ミラクが叫び、私の肩を力強く突き飛ばす。
刹那、私の喉元があった空間を、鋭い槍の穂先が切り裂いた。
キィィィィィィィンッ!
ミラクの分身が硝子の刃でその攻撃を弾き飛ばす。暗闇から現れたのは、紙のように薄っぺらな肉体を持った"トランプの兵士"。先ほどの襲撃でも現れた、あの不気味な尖兵だ。
「あああああああれぇええええ? 避けちゃったんだあああああ、つまんなぁああああ」
不気味に母音を引き伸ばす、少女の声。
それは天井から、あるいは壁の鏡面から、水滴が滴るようにドロリと"出現"した。
「私、アルゴラあああああぁ。今日の遊び相手は、あなたたちいいいいいいい?」
銀色のエプロンドレスを翻し、暗闇の中に逆さまに立つ少女。
――アルゴラ、そう名乗った彼女の瞳には光がなく、ただ相手を"壊したい"という、純粋な狂気だけが宿っている。
まるで、蜻蛉の翅を毟る、無邪気な子供のような――。
「……ノクティア、あいつ、本当にヤバいわよ。帝国の中でも指折りの問題児。かつて癇癪を起こして、城の文官たちを何人も遊び半分で殺したから、地下深くに幽閉されてたはずなのに……!」
ミラクの声が、隠しきれない戦慄で震えている。
「出してもらったのおおおお、お姉様にいいいいいいいい! ここは私の夢の中あああぁ、誰にも邪魔させないんだからああああ!」
絶叫と共にアルゴラが指を弾くと、暗闇の中から無数の"物語"が襲いかかってきた。
「――いくよおおおお、お茶会の始まりいいいいい!」
虚空から飛び出してきた時計を持つウサギが、鋭い牙を剥いて私の喉笛を狙う。
視界の端から姿を現した猫は、次の瞬間、煙のように消えた。けれど、その"笑い"だけが空中に残り、そこから繰り出された爪がミラクの背中を切り裂こうと踊る。
そして、床の影からは際限なくトランプの兵士たちが這い出し、整然とした殺意を持って槍を突き立ててくる。
「っ、ふざけないで! こんなお遊びに付き合ってる暇はないのよ!」
ミラクが分身を自在に操り、襲いくる動物たちを鏡の刃で次々と斬り伏せていく。
私も負けじと、硝子の盾を展開してトランプ兵の突撃を防ぎ、逆手に持った硝子の槍を投擲して、暗闇に潜む気配を貫いた。
(この魔法……やっぱり、こいつの能力は……!)
私は確信する。アルゴラの能力は、彼女の想像力に基づいた物語の具現化。そして、恐らく、彼女が元にした力も推測ができた。
しかし、その強度は異常だ。一本一本の槍が、一匹一匹の獣が、独立した殺意と強固な魔力を持っている。
「ここは通さないよおおお、お姉様が、"人魚姫"をお友達にするまでねえええええ!」
アルゴラが空中を泳ぐように移動し、笑う。
私は突き刺さった硝子の槍を足場に、一気に跳躍した。手に硝子の剣を生成し、無防備に笑うアルゴラの首筋へと肉薄する。
(今度こそ、届く――!)
勝利を確信したその瞬間。
アルゴラの目の前の鏡から、ドロリと巨大な"チェスの駒"がせり出した。
ガギィィィィィィィンッ!
硝子の剣が硬質な黒い駒に阻まれ、火花を散らす。
「なっ……!? チェス……?」
トランプの世界に、不釣り合いなチェスの駒。その違和感に思考が揺らいだ。
「あははああああ! つーぶーれーろー!」
アルゴラが両手を大きく振り下ろす。
すると、彼女の影の中から巨大な、家ほどもある大きさの"青い芋虫"が出現し、空中でバランスを崩した私を押し潰そうと落下してきた。
「……っ、"七人の虚人"!」
間一髪。ミラクが差し向けた分身たちが、私の身体を強引に引き寄せ、巨大な芋虫の圧殺から救い出した。
ドォォォォンッ、という地響きと共に、議場の床が砕け散る。
私はどうにか立ち上がり、息を整える。
「……はぁ、はぁ。……助かったわ、ミラク」
「礼なんていいわよ。……それより、あいつを見てなさい」
ミラクが指差す先。巨大な芋虫の背に乗り、パイプを燻らせるような仕草をしながら、アルゴラがこちらを見下ろしていた。
彼女は、この広大な迷宮を維持しながら、なおかつこれほど大規模な具現化魔法を息つく間もなく行使している。
「こいつ、完全にイカれてるけど、魔力量と出力だけなら帝国でも三指に入る化物よ。……マトモに戦って勝てる相手じゃないわ」
「ええ……。魔法の規模が、私たちよりも遥かに大きい……!」
ノクティアは、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
バナビーやギエナたちが命懸けで繋いでくれた、このバトン。
アルトがどこかで信じてくれている、私の勝利。
ここで立ち止まるわけにはいかない。けれど、目の前の少女は、私たちが今まで出会ったどんな"理不尽"よりも強大で、予測不能だった。
「ミラク。……一人じゃ、勝てないわ」
「……わかってるわよ。言われなくても、背中は預けてあげる」
ミラク・シュピーゲル=セプテニア。
この街に来てから、幾度となく火花を散らしてきた、"白雪姫"。
今、この暗闇の中で、私たちは初めて、本当の意味で互いの実力を認め合い、守るべきもののために手を取り合った。
私は硝子の剣を強く握り直し、ミラクは七人の分身を円陣に配置する。
「お茶会は、おしまいにしましょう。……さっさと目覚めてもらうわよ、アルゴラ」
「あははあああ、やああああだねえええ! 二人まとめて、可愛い継ぎ接ぎにしてあげるううううう!!」
継ぎ接ぎの悪夢に抗うため、暗闇の中、青い硝子の光と、白銀の鏡の光が、最大出力で弾けた。




