7話「閃く刃と死の恐怖」
それを聞いた男の表情がピクリと強張った。
しかし、それはほんの一瞬のこと。すぐに人の良さそうな、卑屈な笑みが張り付いた。
「中身、ですって? いやいや、困りますよ嬢ちゃん。こいつは全部、酒場の親父に届けるワインでしてね。勝手に開けりゃあ、あっしが大目玉食らっちまう」
「へえ、積荷はワイン、ね」
私は男の目を真っ直ぐに見据えたまま、一歩踏み出す。
「ワインにしては、随分と静かね。これだけガタガタの石畳を引いてきたのに、液体の音が全くしないなんて」
「そ、それは……高級品だから、揺れないように詰め物を……」
「詰め物なんて、それこそ、ワインの品質に関わるのではなくて? 勿論、中身が"別のもの"なら、そんな心配は要らないでしょうけど」
私の指摘に、男の額を汗が伝う。
周囲の人々が、何事かとこちらを見始めた。
「……おいおい、嬢ちゃんよ。一体何の権利があって、人の荷物を漁ろうってんだい。こっちは仕事でやってんだ――」
ここだ、と私はより一層、奥歯に力を込めた。
ここで退いてはいけない。あと一押し、それを詰めるのならば、きっと、これだ。
「……申し遅れました、私、ノクティア・サイレンス=グラスベルと申します。この辺りを治める、グラスベル家のものですわ」
大袈裟に、スカートの端をつまんで、一礼してみせる。見様見真似だったが、身体の造形が良いこともあって、それなりに様になっているはずだ。
「げ、げっ……の、ノクティア様であらせられましたか、一体、どうして……」
「"どうして?" 私が、気晴らしに買い物に来てはいけないの? ワインの件で損失が出たのなら、私が立て替えます。だから、樽の中身を見せなさい」
これこそハッタリだ。立て替えるも何も、私はこの世界で、どんな通貨が使われているのかすらも知らないというのに。
けれど、効果は覿面だった。男は明らかな動揺を、その顔に浮かべる。
目が泳ぎ、焦り、苛立ち、そして――。
「……けっ、余計な詮索しやがって」
――明確な殺意が、その瞳に宿るのを私は見た。
さっきまでの卑屈さは消え失せ、そこには捕食者の凶暴さが剥き出しになっていた。
「調子に乗るんじゃねぇぞ、貴族のガキが……!」
ジャリッ、と足音が踏み込まれる。
次の瞬間、男の懐から銀色の何かが閃いた。
ナイフだ。
太陽の光を反射して、ギラついた刃先が私の喉元へと迫る。
それを避けることができたのは、ほとんど奇跡だった。反射的に後ろに下がったところを、たまたま刃が通過しただけ。
もし、一瞬でも遅れていたのなら。
あの凶刃は、私の喉を深く抉っていた。
「っ、ふうっ……!」
殺される。
現代では味わうことなど滅多にない、ドス黒い殺意に晒され、思考が真っ白になる。
怖い。死にたくない。
「――っ、魔法、を!」
もし、そんなものが本当にあるのなら、今が使い所だろう。
私は心の中で必死に念じた。手から炎が出るとか、バリアが張られるとか、何でもいいから起きてくれと願った。
けれど、何も起きない。
私の体は恐怖で金縛りにあったように動かず、ただ迫りくる死の輝きを見つめることしかできない。
「へっ、黙ってりゃよかったのによ! あばよ、お嬢様――!」
男が、ナイフを振りかぶる。腰が抜けた今の私では、避けることもままならない。
ああ、やっぱり。
私は"姫"なんかじゃない。ただの無力な、口先だけの女子高生なんだ――。
刃が肌に触れる、その寸前だった。
「――お下がりください」
鈴を転がすような、涼やかな声。
同時に、私の視界がクルリと回転した。
誰かに背後から抱き寄せられ、優しく、しかし強引に後ろへと庇われたのだ。
ガギィッ!
硬いものが噛み合うような、硬質な音が響き渡る。
私が立っていた場所に、一人の少女が割り込んでいた。
「――お嬢様、お怪我はございませんか?」
そう言って彼女――スピカは、涼しげに微笑みかけてきた。
彼女は私の前に立ち塞がり、男が突き出したナイフを――近くに立てかけてあったのだろう、箒の柄で受け止めていた。
「あ……?」
男が間の抜けた声を上げる。
鉄のナイフを、ただの木の棒で受け止められたことが信じられないのだろう。
だが、驚愕している暇などなかった。
「私の大切なお嬢様に、その薄汚い刃を向けないでいただけますか?」
普段の天真爛漫な彼女からは想像もつかない、氷のように冷徹な声。
次の瞬間、スピカの手首がしなやかに返った。
ヒュンッ、と空気を裂く風切り音。
箒の柄が生き物のようにしなり、男の手首を強打する。
「ぐあッ!?」
ナイフが宙を舞い、石畳に落ちて音を立てた。
男が手首を押さえて蹲るよりも早く、スピカはさらに踏み込む。
ふわりとメイド服のスカートが翻ったかと思えば、強烈な蹴りが男の鳩尾に吸い込まれていた。
「が、は……ッ!?」
男は悲鳴を上げることもできず、白目を剥いてその場に崩れ落ちる。
一瞬の出来事だった。
周囲の野次馬も、私も、何が起きたのか理解できずに口を開けている。
静寂の中、スピカは乱れたエプロンをパンパンと払うと、いつもの笑顔で私に振り返った。
「お怪我はありませんか、お嬢様?」
「え、ええ、だ……」
大丈夫、と言おうとしたのに、声が出ない。まるで、喉が張り付いてしまったみたいだ。
落ち着いて、深呼吸をひとつ、ふたつ。努めて、先ほどまでの虚勢を思い出すように、上擦りそうになる声を、必死に押さえた。
「大丈夫、よ。スピカ、あなたは……強いのね」
「えへへ、お嬢様に褒められちゃいました! そうです、スピカは、お嬢様のためなら百人力なんです!」
そんなやり取りをしているうち、樽の中から猿ぐつわをされた少年――レオが無事に保護されると、広場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
駆け寄ってきた母親が、レオを抱きしめて泣き崩れる。
それは、物語のようなハッピーエンドの光景だった。
「ありがとうございます、お嬢様、それにメイドさんも! あなた達は命の恩人です!」
母親が涙ながらに頭を下げる。
私は、曖昧な笑みを浮かべて頷くことしかできなかった。
ドレスの袖に隠した手が、まだ微かに震えている。
――私は、何もしていない。
犯人を見つけたのは私かもしれない。けれど、いざ刃を向けられた時、私は悲鳴を上げて竦み上がっただけだ。
あの一瞬、スピカがいなければ、私は間違いなく死んでいた。
魔法も使えない、戦うこともできない。
"姫"という皮を被っただけの、無力な偽物。それが、私だ。
「……帰りましょうか、スピカ」
歓声の輪から逃げるように、私は踵を返した。




