80話「迷宮の先にて」
硝子の檻。その内側で、膨張し爆発せんとしたサダルスウドの魔力は、行き場を失い、静かに、しかし徹底的に封じ込められた。
意識を失った彼の姿を確認して、一つ息を吐く。
勝利。正しく、薄氷の上の。
どうして勝てたのか、分からなかったほどだ。ギエナが突然、不思議な力に目覚めなければ――。
「……っ、ギエナ!」
――けれど、その代償はあまりに重かった。
私は檻から視線を外し、背後の壁に凭れかかるようにして崩れ落ちた男の元へ駆け寄った。
銀色の鬣は既に消え、いつもの灰色の髪が汗と血に塗れている。彼は荒い呼吸を繰り返し、剣を杖代わりにしてどうにか意識を繋ぎ止めていた。
「……ははっ、お見事でさぁ、お嬢様。……これなら、おじさんの命も、無駄じゃなかったわけだ……」
「喋らないで。今、治癒の魔法を……」
「いいえ。……先に行きなせぇ」
ギエナは私の手を優しく、だが拒絶するように押し止めた。
その瞳は、深手を負いながらも、鋭く一点――晶潮館の中央、議場のある方角を射抜いている。
「あいつの最後の言葉……"人魚姫"がどうとか言っていやがった。……狙いは、アケルナルだ。……急進派の狙いがこの街の崩壊なら、その心臓を止めに来るはずだぜ」
「でも、あなたを置いてなんて……!」
「おじさんは、ここで少し昼寝をさせてもらいやす。……年甲斐もなく、はしゃいじまったもんでね。……さあ、行ってくだせぇ」
ギエナは無理やり口角を上げ、いつもの不敵な笑みを浮かべてみせた。その背中は、もはや死を待つハイエナのものではない。主を戦場へと送り出す、王国の誇り高き騎士の一人だった。
「……わかったわ。必ず、戻ってくるから」
私は立ち上がり、一度だけ振り返ってから、鏡の迷宮の深淵へと足を踏み出した。
晶潮館を包み込んだ迷宮は、アルゴラの魔力によって未だその構造を歪め続けている。
右も左も、鏡の中に映る自分自身の困惑した顔ばかり。
焦燥が足取りを速めさせる。サダルスウドの言った"人魚姫の力"。もしアケルナルの命が、あるいはその力が奪われれば、エリダヌスという国そのものが傾きかねない。
鏡の廊下を抜けた、ちょうど角のところだった。
「――やあ、硝子の"姫"。君も無事だったんだねえ」
場違いなほど、呑気で、どこか浮世離れした声。
そこに佇んでいたのは、プレアデス聖教国の特使、リラ・マイアだった。
彼女は鏡の壁に背を預け、まるでお祭りの終わりを待つ子供のように、暗い空間を眺めていた。
「リラ……! 無事だったのね」
「まあねえ。私はただの"観客"だから。……でも、物語の脚本は、随分と残酷な方へ書き換えられているみたいだねえ」
リラはベールの下の瞳を細め、私が向かおうとしている中央棟を指差した。
「帝国の"姫"たちが、アケルナル様のいる最奥に向かったよ。……"マッチ売りの少女"。そして、目覚めぬ"姫"。彼女たちは、アケルの命を焚き木にして、この世のすべてを焼き尽くすつもりだ」
「……行かなきゃ。あの子たちを止めないと」
「そうだねえ。君ならそう言うと思ったよぉ」
リラはふふ、と喉を鳴らした。私は思わず、彼女に問いかけた。
「……あなたは行かないの? お友達が狙われているのよ」
その問いに、リラは一瞬、言葉を失ったように沈黙した。
それから、彼女らしくない、冷たく澄んだ真剣な声で答えた。
「行かないよ。……私が今そこへ行くと、確実に死ぬからねえ」
「死ぬ……?」
「私はまだ、死ぬわけにはいかないんだ。……あと少しだけ、役割が残っているから」
彼女の言葉の意味は、今の私には理解できなかった。
けれど、その瞳の奥に宿る絶望の深さだけは、鏡の反射を通じて痛いほど伝わってきた。
「さあ、急ぎなよぉ。……道案内くらいは、してあげるからさぁ」
リラが羽織を翻すと、その姿が霧のように揺らぎ、無数の小さな鳥へと姿を変えた。
美しくも哀しい囀り。羽ばたいていく"小夜啼鳥"。
鳥たちの群れは、鏡の迷宮の歪みを縫うようにして、一筋の光の道を作り出す。
そのうちの一羽が、私の肩を掠めて前方へと飛んでいった。
「ありがとう、リラ!」
私はその鳥を追いかけ、鏡の迷宮を、世界の歪みを、全力で駆け抜けた。
鳥に導かれるまま、いくつもの屈折を通り抜けると、不意に視界が開けた。
迷宮の異質さは消え、そこにあったのは、見覚えのある重厚な装飾を施された大扉。
晶潮館の中央棟――議場へと続く、最後の入り口。
扉の前には、一人の少女が立っていた。
「……ノクティア?」
白いドレスを血と煤で汚し、鏡の欠片を握りしめたミラクだった。
彼女は私を見ると、驚いたように目を見開き、それから私の纏う、硝子のドレスに視線を落とした。
「あなたも、"姫"だったの……!? だって、昨日は」
「……事情があるの。そんなことより、そっちは?」
「そんなこと、って、あなたねえ……」
私の問いに、ミラクは何か言いたげな表情を浮かべたものの、諦めたように小さく息を吐き、現状を報告した。
「バナビーは傷が深かったから、安全な場所に置いてきたわ。……今は、あなたのところの侍女――シャウルだったかしら。彼女が面倒を見てくれている。……意外と、頼りになる子ね」
「……そう。シャウルも無事なのね」
ギエナは東棟でダウン。バナビーは負傷。シャウルはその看護。
残るは、無事が確認できていない、あの一人だけ。
「……アルトはどうしたかしら」
「知らないわよ、あの騎士崩れのことなんて。……でも、死ぬようなタマじゃないでしょ。あなたを守るって、あれだけ吠えていたんだから」
ミラクの言葉に、私は短く頷いた。
そう。彼ならきっと大丈夫だ。
ボロボロになりながらも、最後には必ず、私の前に現れてくれるはず。
「……行きましょう、ノクティア。中には、帝国の最悪な"お姉様"たちが待っているわ」
「ええ。……こんな悪夢、もう、こりごりだわ」
私はミラクの横に並び、冷たく重厚な議場の扉に手をかけた。
扉の向こうからは、すべてを焼き尽くさんとする火の粉の気配と、甘ったるい、死の夢の匂いが漂ってくる。
覚悟を決めて、私は扉を押し開いた。




