79話「硝子の鬣」
視界を埋め尽くしていた白銀の閃光が、網膜に焼き付いて離れない。
晶潮館の東棟を揺るがした未曾有の爆鳴。その余韻が消え去った後に残されたのは、ただ、不気味なほどに静まり返った瓦礫の山だった。
「……ギエナ……っ!」
私は、震える声を絞り出した。
目の前には、崩落した天井と壁の残骸が、小山のように積み上がっている。その下には、私を庇って全方位からの斥力弾をその身に受けた、一人の男が沈んでいた。
駆け寄ろうとする私の足を、冷酷な声が引き止める。
「あはははは! 壊れちゃった、壊れちゃった! 卵はもう、元には戻らないんだよお!」
サダルスウドが、瓦礫の上で軽やかに踊っていた。
彼は少年のように無邪気にはしゃぎ、手を叩き、それから不意に動きを止める。
私に向けられたその視線は、熱を持たぬ氷のように冷たく、昏い。
「――次は君の番だよ、お姉さん。この鏡の迷宮で、永遠に醒めない夢の中に落としてあげる」
サダルスウドが、新たな"卵"を掌に生成する。
脈動する白銀の球体。それは、私の命を刈り取るための冷徹な死神の鎌だ。
私は、反射的に右手を掲げた。胸元の硝子のブローチに意識を集中させる。
(お願い……目覚めて、"シンデレラ"……!)
だが、私の指先には一筋の魔力も宿らない。
窓の外を見やる。太陽は地平線の端にかかり、最後の悪あがきのように残光を撒き散らしていた。
あと、数分。あと、数十秒。
空が完全に藍色に染まりさえすれば、私の魔法は牙を剥くことができる。
けれど、狂気に呑まれた死神は、その数秒すら待ってはくれなかった。
「バイバイ、お姉さん」
サダルスウドが、卵を投げつけようとした、その瞬間だった。
「――ゥ゙、オオオオオオオオオオオオッ!!!」
瓦礫の山の奥底から、空間そのものを震わせるような"雄叫び"が響いた。
「……え?」
サダルスウドの動きが止まる。
それを合図にしたかのように、瓦礫の隙間から、ドロリとした闇を切り裂くような、眩い"銀色の輝き"が溢れ出した。
それは魔力の残滓ではない。もっと根源的で、野生的な、意志そのものが発光しているかのような凄まじいプレッシャー。
ドォォォォンッ!!
爆発的な衝撃と共に、積み上がっていた数トンはあろうかという瓦礫が、まるで紙屑のように四方へ跳ね飛ばされた。
煙塵の中から、一人の男がゆっくりと立ち上がる。
「――ギエ、ナ?」
そこにいたのは、私の知る"小狡いハイエナ"ではなかった。
全身から銀色の燐光を放ち、その髪は猛々しく逆立ち、まるで月下に吼える獅子の如き威容。
"砂の鬣"、ギエナ・アルファルド。
その真の覚醒――いや、その命を燃やし尽くして辿り着いた、極限の姿。
「……ぁ、あ……?」
サダルスウドの顔から、笑みが消えた。
彼は本能的な恐怖に、その小さな身体を震わせる。
「――それ以上、お嬢様に近付きなさんな、クソガキ」
ギエナの声は、低く、重い。
その銀色の瞳に射貫かれた瞬間、サダルスウドは絶叫と共に、周囲に数十もの卵を生成した。
「化け物! 壊れろ、壊れろ、壊れちゃえよぉぉッ!!」
最大威力の斥力弾が、一斉にギエナへと殺到する。
だが、ギエナは避けない。
ただ、その右手を、無造作に振り抜いた。
「――失せろ」
刹那。
ギエナが纏う銀の鬣が爆発的に膨れ上がり、迫り来る斥力の渦を、真っ向から"食いちぎった"。
轟音と共に、すべての攻撃が虚空へと霧散する。
唖然とする彼の前に、白銀の獅子は悠々と佇んでいた。
「そんな……僕の魔法を、力尽くで……っ!?」
「お前みたいな、他人のフンドシで相撲取ってる小僧が、触れていいお方じゃねえんだよ」
それでも、彼が止まることはなかった。手元に再び、複数個の"卵"を取り出し、構える。
「――逃がさないよ、死ねぇッ!!」
サダルスウドが、投げつけた卵をさらに別の卵から発生させた斥力で弾き、空中で不規則に加速・転向させる。
防ぎきれない、避けられない。全方位からの、逃げ場なき大爆撃。
だが、着弾の刹那。
ギエナの姿が、鏡の迷宮の景色に溶けるようにして"消えた"。
「……は!? あいつ、どこに――」
返答は、言葉ではなく"激痛"として返ってきた。
――ザシュゥゥゥゥッ!!
サダルスウドの肩から胸にかけて、一瞬で深い爪痕が刻まれる。鮮血が噴き出し、少年の身体がくの字に折れ曲がった。
目にも留まらぬ速度。
それは、"人類到達点"ヴェルギウスにさえ迫る、極限の駆動。
ギエナは迷宮の鏡面を、物理法則を無視した角度で蹴り抜き、弾丸のような速度で空中を縦横無尽に駆け抜けていた。
「あ、が……ぁあ……っ!」
「こいつで、しまいだ!!」
ギエナの追撃。
銀色の閃光が、サダルスウドの小さな身体を蹂躙し、石畳へと叩き伏せる。
これにて、決着――。
そう思われた、その時だった。
「――あはは、あはははははッ!!」
倒れ伏したサダルスウドが、狂ったように笑い声を上げた。
その身体が、不気味な脈動を伴い、まるで限界まで膨らんだ卵のようにパンパンに膨張し始める。
「壊れるんだよぅ、何もかも! なあにもかも壊すんだ! アルゴラが、お姉様が望むように! 帝国の蠢動が、この世界を塗り替えるんだ!」
少年の瞳が、真っ赤に充血する。
自爆。
"姫"から授けられた力のすべてを暴走させ、周囲のすべてを道連れに消滅しようという、狂気の終幕。
「"人魚姫"の力があれば、何もかも壊れる! 取り返しのつかない、器のように――!!」
膨れ上がった魔力が、臨界点を超える。
瓦礫を、鏡を、そして私たちを飲み込もうとした、その刹那。
「――そんなこと、させないわ」
私は、静かに、だがはっきりと、それを口にした。
同時に、辺り一面を、美しく、そして冷徹な"硝子の檻"が閉ざした。
サダルスウドの暴走した魔力が解放される直前、私の魔法が、その空間ごと彼を封印したのだ。
炸裂したはずの斥力は、強固な硝子の壁の内側で虚しく反射を繰り返し、ついには行き場を失って沈黙した。
ふ、と。
会議場に差し込んでいた残光が消え、完全な夜が訪れていた。
私の胸元のブローチが、深い藍色の光を宿し、真の"シンデレラ"の覚醒を告げる。
「……ふぅ。いいタイミングだ、お嬢様」
銀色の鬣をゆっくりと掻き上げ、ギエナが変身を解いた。
満身創痍。立っているのもやっとのはずなのに、彼はいつもの、食えないハイエナの笑みを浮かべてみせた。
「まあ、そういうこった。そこで指でもくわえて見てな、クソガキ」
ギエナは、硝子の檻の中で絶望に目を見開くサダルスウドを見下ろし、私を指し示した。
「――硝子の姫様が、今からこのクソッタレな物語を、何もかも塗り替えるところをよ」
その言葉を合図にするように、東棟の壁が、鏡が、次々と硝子の粒子となって崩壊していく。
夜が、来た。
ここからは、私たちの時間だ。




