78話「残光と産声」
◆◇◆
――暗い、底だった。
熱も、音も、重力すらも存在しない。
ただ、肺の奥にこびりついた硝煙の苦味と、四肢を引き千切られたような虚脱感だけが、俺がまだ"存在している"ことを証明していた。
意識の輪郭が、墨汁を垂らした水のように、際限なく闇へと溶け出していく。
ふと、その闇の向こう側から、懐かしい匂いがした。
安物の蒸留酒と、手入れの行き届いた油の匂い。
「――なあ、ギエナ。お前はどうして、騎士になったんだ?」
顔を上げると、そこにはあいつがいた。
"不落の獅子"、タラゼド・オレオーン。
まだ若く、鎧の傷も今よりずっと少なかった頃の、黄金の太陽。
場所はグラスベル領の片隅、国境警備の騎士団が集まる、騒がしい酒場だった。
互いに酔っていた。特にあいつは、らしくもなく踏み込んだ質問を、まだ入団して間もない俺に投げかけていた。
「……何だ、藪から棒に。おじさんにゃ似つかわしくねえ質問だな」
俺は冷めた声で返し、手元のグラスを煽った。
生きるために傭兵をしていた。グラスベル領に流れ着き、騎士を志願したのも、大戦の後で食い詰めていたからだ。剣は振れる。殺しもできる。だったら、野垂れ死ぬよりはマシな給料が出る場所を選んだだけだ。
「金のためだよ、オレオーン。職にあぶれて、食うに困って、仕方なく志願した。……お前さんのような高潔な理由なんて、これっぽっちもねえさ」
「そうか。金のためか」
あいつは怒りもせず、ただ何ということはないように笑った。
そして、空になった俺のグラスに勝手に酒を注ぎ足しながら、独り言のように続けた。
「だが、騎士には守るものが必要だ。領土、領民、生活、愛する人々。……金は手段であっても、目的にはならん。守るべきものの果てにこそ、理想の自分があるはずだ」
「……あいにくだが、俺には無えよ。そんなもんは一つもな」
「あるさ、ギエナ。お前にも、いつか必ず見つかる。己が命を賭してでも、守りたいと願うものがな」
自信満々に言い切るあいつの横顔を、俺は冷ややかな目で見ていた。
理解できなかった。
そんな眩しい夢を語る男の隣にいるのが、ひどく場違いに思えた。
そして結局、俺がその言葉の真意を悟る前に、あいつは逝ってしまった。
光を振りまくだけ振りまいて、俺という影を置き去りにして。
◆◇◆
◆◇◆
闇が、揺らぐ。
俺の目の前に、別の影が立っていた。
それは、傭兵になりたての、泥に塗れた幼い日の俺。
砂漠の戦場で死体を漁り、"鬣"という虚飾の異名を付けられた頃の、刺すような眼差しをした俺。
そして、ノクティアお嬢様に出会う直前、すべてを諦めて影に潜んでいた俺。
いくつもの"自分"が、今の俺を取り囲み、問いかけてくる。
『お前は、何が欲しかったんだ?』
幼い俺が、飢えた瞳で俺を射抜く。
「……わからねえ。生きることで精一杯だった。明日食うパンと、今夜をしのぐ寝床。……それだけを求めて、今まで生きてきた」
『お前は、何になりたかったんだ?』
全盛期の、傲慢な"鬣"の俺が、皮肉な笑みを浮かべる。
「……わからねえ。何かになれたつもりだったんだ。この鬣も、この地位も。……だが、中身は何もありゃしねえ。ただの張りぼてだ」
『……全部、嘘っぱちだったんだろう?』
最後に、今の俺に近い男が、哀れむように呟いた。
『だから、怖くなった。……あの嬢ちゃんの目を見るのが』
脳裏に、シャウルの姿が浮かぶ。
嘘を嗅ぎ分け、真実を見通す、野性の瞳。
「……ああ、そうさ。怖かったよ。……実は、小狡いだけのハイエナで、大事なものなんて何もありゃしねえ、そんな、空っぽの獣であると――。お嬢様やあいつに、バレるのが、怖くて仕方がなかった」
気がつけば、俺の手足には、夥しい数の傷が浮き出ていた。
過去の泥沼のような戦いでついた古傷。今回の戦いで、サダルスウドの斥力にズタズタにされた新傷。
それらのすべてが、とてつもない質量を持って俺の精神を押し潰す。
――ああ、疲れたな。
――本当に、疲れた。
俺の旅路には、何もありゃしなかった。
守るべきものも見つからず、誇るべき生き様も示せず。ただ、影の中で小銭を稼ぎ、死線を潜り抜け、生き延びてきただけだ。
「……もう、いいだろ」
俺は暗闇の中で、ゆっくりと目を閉じた。
全身の痛みが遠のいていく。心地よい眠りが、潮水のように俺を浸していく。
もう、十分だ。
ハイエナは、泥の中で眠ればいい。
獅子にはなれなかった。それだけの話だ――。
「…………」
意識が、消え入る寸前。
暗闇の中に、微かな、だが決して消えない一筋の輝きが灯った。
それは、硝子の破片。
あの鏡の迷宮の中で、ボロボロになりながらも前を見据えていた、少女の瞳。
(……そういえば、お嬢様は――)
あんなに追い詰められて、魔法も使えない状況で。
リゲルに嘲笑われ、絶望の宣告を突きつけられても。
(ああ。……諦めやしなかったな)
一度たりとも、その誇りを捨てようとはしなかった。
滅びの"物語"を書き換えるんだと、震える拳を握りしめていた。
『あれが、お前にとって大事なものなのか?』
闇の中の自分が、問いかける。
「……違うだろうな。あの子は、俺なんかが勝手に"守るべきもの"なんて名付けて、縛っていい相手じゃない」
お嬢様は、自由だ。
自分の足で立ち、自分の言葉で世界を変える。
俺ごときが、所有物のように"守る"なんておこがましい。
だが。
「……だがよ、俺が捧げるのは、俺の自由だろ?」
誰に頼まれたわけでもない。
義理があるわけでも、金のためでもない。
ただ、あの子の意志に、その覚悟に。
俺という薄汚い男の、最後の一滴まで使い切る価値がある。
そう思っただけだ。
何かのために戦いたいじゃないか。
俺だって、この空っぽな人生で、一度くらい。
「――手足は、まだ動くか?」
自問する。
焼けるような神経が、痛みを伴って応答する。
「――目は、まだ見えるか?」
暗闇を凝視する。
硝子の破片が反射する、一筋の銀光を捉える。
「……じゃあ、肺や心臓だって、まだ使い物になるはずだ」
俺は、泥の中から這い出した。
獅子にはなれなかった。
不落の英雄にもなれなかった。
だが、今、この瞬間。
砂に塗れた鬣を逆立て、命の薪を焚べて、あの子の行く手を阻むすべてを食いちぎることはできる。
俺だって、一度くらい――。
嘘偽りのない、誇り高い、獅子のように戦いたい――!!
――カチリ、と。
俺の中で、何かが噛み合った音がした。
◆◇◆




