77話「ヴォーパル・ソード」
――視界が、真っ赤に染まっていた。
自分の血か、あるいは砕け散った石材の粉塵か。
アルトは仰向けに倒れたまま、震える指先で地面を掻いた。右目の硝子は既に光を失い、ただ焼けるような熱気と、神経を直接抉られるような激痛だけを脳に伝えてくる。
一歩。また一歩。
死を運ぶ巨躯が近づいてくる音がする。
だが、その足音が不意に止まった。
「……なんだ、つまらん。もう余興は終わりか?」
凍てつくような、低く澄んだ声。
アルトは霞む視界を無理やり持ち上げた。
燃え盛る広場の入り口。炎の揺らめきを背景に、黄金の髪を夜風に遊ばせ、場違いなほど優雅な身なりの青年が立っていた。
ガーランド皇太子、リゲル・ヴァント=ガーランド。
そして、その傍らには――抜身の刀よりも鋭い気配を纏った、一人の男。
「主従ともに、身の程というのを知らんようだな、グラスベルの犬」
リゲルは、無様に地を這うアルトを見下ろし、鼻で笑った。その瞳には軽蔑の色が浮かんでいたが、恐らく、それだけではなかったのだろう。
「吠えたのならば、最後までその牙を放すべきではなかろうに。……矜持も、誇りも、語るためには力が必要だ。理想を語る前に、強くなければな。……それを持たぬ者の末路など、語る価値もない」
リゲルはそれ以上、アルトに言葉をかけることはなかった。
死にゆく敗者に興味はないと言わんばかりに、彼は踵を返そうとする。
だが、その歩みを阻むように、影が伸びた。
「――待て。貴様、"人類到達点"だな?」
ドゥーベだった。
彼は無視されたことに憤るどころか、その異様に肥大した口元を吊り上げ、愉悦に満ちた声を漏らした。
ドゥーベの視線は、リゲルではなく、その後ろに立つ男――ヴェルギウスに固定されている。
「ほう。我に背を向けて立ち去るか。面白い。……実に、喰らい甲斐がありそうだ」
ドゥーベの関節が、バキバキと音を立てて逆方向に曲がる。
生物としての形状を捨て、ただ"屠る"ためだけに最適化された肉体が、戦慄くような殺気を放ち始めた。
「"怪物"となったこの身は、既に人間を超越した! 論理を、物理を、因果をも食いちぎる我が凶爪! 貴様という"人の頂点"を弑することで、我は卑賤な人の身への、完全なる別れとしようッ!!」
ドゥーベの咆哮。
だが、対するヴェルギウスは、眉一つ動かさなかった。
彼は主君であるリゲルの目配せに応じることもなく、静かに、一歩だけ踏み出した。
向かう先は、ドゥーベではない。
ヴェルギウスは、倒れ伏すアルトの足元まで歩み寄ると、そこに転がっていた、折れたサーベルを、おもむろに拾い上げた。
「……ヴェル、ギウス、卿……」
アルトが喘ぐようにその名を呼ぶ。
ヴェルギウスは折れた刃を見つめ、それから、アルトの硝子の右目をじっと見据えた。
その瞳には、憐憫も同情もなかった。それは、ある種の――"期待"に近いものだ。
「――よく見ておけ、若き騎士。人の身も、捨てたものではないぞ」
ヴェルギウスはそう囁くと、折れた、半分の長さしかない剣を無造作に手に持ち、ドゥーベへと向き直った。
「貴様、我を愚弄するかァッ!!」
折れた、なまくらな鉄屑。
そんなもので自分に対峙しようというヴェルギウスの姿に、ドゥーベは激昂した。
「構えすら取らぬか! 我という超越者を前に、棒立ちで死ぬか! 死ね! 死んで我が血肉の一部となれッ!!」
ドゥーベの身体が、物理法則を無視して消えた。
踏み込みの予備動作もなく、瞬時にヴェルギウスの至近距離へと肉薄する。
質量を万倍に膨らませた、理外の凶爪が、ヴェルギウスの頭部を粉砕せんと振り下ろされた。
対するヴェルギウスは――。
ただ、悠然と歩いた。
嵐の中を散歩するかのような、あまりに自然な、あまりに無防備な一歩。
両者が交差する。
一瞬の、静寂。
燃え盛る炎の爆ぜる音すらも消え、世界の鼓動が止まったかのような、絶対的な"無"。
――パリン。
アルトの右目の硝子が、鋭く鳴動した。
その瞬間、アルトの視界には"視えて"しまった。
ドゥーベの予測不能な、デタラメな暴力。
それに対し、ヴェルギウスが描いたのは、一筋の、極めて"合理的"な直線だった。
ドゥーベが腕を振り上げるよりも早く。
ドゥーベが質量を変えるよりも早く。
"ここを斬れば、相手は死ぬ"という、世界の急所に、折れた刃がただ、置かれたのだ。
――直後。
ドゥーベの巨躯が、左右真っ二つに分かたれた。
噴水のように吹き上がる血飛沫。
切断面は鏡面のように滑らかで、ドゥーベの頑強な骨も、理外の肉体も、ヴェルギウスの"技量"の前には紙切れも同然だった。
「……馬鹿な、ありえ、ん……」
上半身だけとなったドゥーベが、石畳に転がりながら呟く。
その瞳に宿っていた"怪物"の狂気は消え失せ、代わりにあったのは――ただ、死を直前にした人間の、根源的な"恐怖"だった。
ヴェルギウスは、彼を怪物としてではなく、ただの脆弱な"人間"として切り捨てたのだ。
ドゥーベ・ヴァルガス。
帝国が誇る"虚言"の戦士は、最期に惨めな悲鳴を上げ、そのまま絶命した。
「お待たせしました、坊ちゃま。……行きましょう」
ヴェルギウスは、手にした折れた剣を鞘に収めることすらなく、アルトの傍らにそっと置いた。
返り血一つ浴びていないその姿は、神々しさすら感じさせる。
「……貴様。わざと、あの犬ころに見えるように剣を振るったな?」
離れた場所で待っていたリゲルが、不機嫌そうに、だがどこか感銘を受けたような複雑な表情で問いかけた。
ヴェルギウスは、その問いをはぐらかすように、視線を逸らす。
「……さあ。なんのことやら」
ガーランドの二人は、それ以上アルトを顧みることなく、夜の闇の中へと消えていった。
取り残されたアルトは、立ち上がる気力も失い、ただ目の前に置かれた"折れた剣"を見つめていた。
(……あれが、人の辿り着ける、限界……)
魔法も、"姫"も関係ない。
ただひたすらに磨き上げられた、純粋な"意志"と"技術"が、怪物を圧倒した。
アルトの目に焼き付いたのは、ドゥーベの死ではない。
ヴェルギウスが見せた、あまりに鮮やかで、あまりに遠い――"到達点"の残光。
アルトは震える手で、返された剣を握りしめた。
右目の硝子に走ったヒビは、不思議と、もう痛まなかった。
その代わりに、彼の胸の奥底では、今までとは違う熱が、静かに、だが決して消えない灯火となって燃え始めていた。




