76話「嘘吐きと閉廷」
「あははははァ! 閉廷だなんて、冗談も休み休み言いなさいよォ、この野良犬ちゃんがァ!」
鏡の迷宮に、サルガッソの金切声が響き渡る。彼は扇子を激しく動かし、倒れ伏すミラクとバナビーを見下ろして嘲笑を重ねた。
「魔法も使えない、戦い方も知らない薄汚い小娘に、一体何ができるっていうのォ? ここはワタシの法廷。ワタシが法であり、ワタシがルールなのよォ。ワタシに逆らえば、この空間すべてがお前の敵になるのォ!」
強烈な"嘘の匂い"が周囲に充満する。どぶ川の底を掻き回したような、胸の悪くなる腐敗臭。
だが、シャウルは眉一つ動かさなかった。むしろ、その匂いが強ければ強いほど、彼女の確信は深まっていく。
「……五月蝿いっすね。あんたの言葉、どれもこれも腐った魚みたいな匂いがして、空腹も失せるっすよ」
シャウルは懐に手を入れたまま、淡々と指示を飛ばした。
「バナビー様。そのままの姿勢で、鏡の盾を後ろに全力で射出するっす。逃げ遅れた人たちの守りを固めるっすよ」
「……っ、しかし、それでは背後への『許可なき後退』と見なされ――」
「いいからやるっす! "盾を飛ばす"のは攻撃であって、あんた自身の"後退"じゃないっす。言葉の定義なんて、その程度のものっすよ!」
バナビーは一瞬躊躇したが、シャウルの瞳に宿る絶対的な自信に賭けた。
ガィィンッ! と音を立てて、巨大な盾が背後へと滑り出す。
「あらァ、違反よォ! 死刑、死刑よォ!」
サルガッソが叫ぶ。だが――何も起きない。
空間を断つギロチンの風は吹かず、盾は無事に文官たちの前で強固な壁となった。
「……っ!」
「次っす。ミラク様、分身を一人だけ、地面を這わせるようにしてアイツに接近させるっす。空中に跳んじゃダメっすよ」
「わ、わかったわ……!」
ミラクが意識を集中させ、一人の"虚人"が低い姿勢で石畳を駆ける。
サルガッソの顔が、初めて焦燥に歪んだ。
「だ、ダメよォ! 『法廷規則その1。法を司るものに、危害を加えてはならない』! 近づけばズタズタになるわよォ!」
「法を司るものを傷付けちゃいけない? ……なら、あんたは無敵のはずっすね」
シャウルは冷ややかに鼻で笑った。
「もし本当にそのルールがあるなら、あんたがわざわざ距離を取る必要はないっす。ミラク様やバナビー様に、自分から肉弾戦を仕掛ける方がよっぽど有効っすよね。……それをしていないってことは、その『法則』は真っ赤な嘘っすね」
「――っ、この、クソガキがあああああッ!!」
サルガッソの余裕が完全に崩壊した。
接近したミラクの分身が、硝子の刃をサルガッソの喉元へ突き出す。サルガッソは無様に椅子から転げ落ち、必死の形相でその一撃を回避した。
斬撃の風は――やはり、吹かなかった。
「種明かしをするっす。あんたの魔法は、きっと強力な"自律型"のものなんじゃないっすか? あらかじめ設定された条件を破った奴を自動で攻撃する。……でも、その条件は、あんたの匙加減で変えられるほど万能じゃないっす」
シャウルは一歩、また一歩とサルガッソへ詰め寄る。
「恐らく、『法則1』の正体も、移動方法の制限っす。例えば……『両足を地面から離して、一定距離を進んではならない』。とかっすかね」
「……っ!」
「だから、さっきミラク様が跳びかかった時は切られた。でも、地面を這って進む分身は切られない。……図星っすね」
サルガッソの顔面が、屈辱で真っ赤に染まる。
彼は震える指でシャウルを指差した。
「ほ、ほほほ、『法廷規則その8、何人たりとも、この法廷の規則を――推測することを禁ず』よォ! 判決は即決、死――」
「推測を禁じる? それなら、最初にあたしが喋り出した時点で切られてなきゃおかしいっす。……今この瞬間にルールを追加できるほど、あんたの魔法はお手軽じゃないはずっすよ」
シャウルの指摘は、サルガッソの魔法の根幹を射抜いていた。
"赤の女王"の法廷は、厳格な法典によって運用されている。発動時に定めたルールは絶対だが、それを後から書き換えることはできない。
そして、これだけ挑発を繰り返しても、シャウル自身に"ギロチン"が落ちないということは、サルガッソには斬撃の任意発動権すらも存在しないことを意味していた。
「あとは、詰みっす。ミラク様の"虚人"を駒に使って、ルールを虱潰しに検証させてもらうっす。……あんたの喉を掻っ切るための、安全なルートを見つけるなんて、あたしには朝飯前っすよ」
「……っ! この、ドブネズミの分際でェ!!」
もはや"法を司る者"の威厳など、どこにもなかった。
追い詰められたサルガッソは、懐から魔法とは無縁の、単発式の小型銃を取り出した。
「お前さえ……お前さえいなければァ!!」
震える銃口が、シャウルの眉間を捉える。
だが、引き金を引くよりも早く、シャウルの手から"何か"が放たれた。
――キィィィィィィィンッ!
鋭い金属音が響く。
シャウルが投げたのは、ポケットに入っていた、粗悪な銀色の硬貨。
それは――王都で、仕えるべき主人にささやかな反逆をした際に得た、割に合わない対価。
投げられた硬貨は正確に銃の重心を叩き、サルガッソの照準をわずかに右へと逸らした。
パンッ! と乾いた発砲音が鏡の迷宮に虚しく響く。弾丸はシャウルの頬をかすめることすらなく、背後の鏡の壁に虚しく吸い込まれた。
「あら、残念。一発勝負は苦手だったかしら?」
サルガッソが次弾を装填する余裕など、"白雪姫"が与えるはずもなかった。
「駄目じゃない、法を司るんでしょ? そんな下品なものを持ち出したら、即刻退廷を命じられちゃうわ!」
硝子の破片が舞う中、ミラクが音もなく距離を詰めていた。
彼女の手に握られた鏡の欠片が、月光を反射して白銀に輝く。
「ひ、ひいぃ……ッ! ま、待って、ワタシはただお姉様に命じられてェ……!」
「じゃあ、私が判決を言い渡してあげる」
ミラクの冷徹な声が廊下に満ちる。
「有罪。――二度と、私の前で鏡を汚さないで」
白銀の一閃。
ミラクの放った斬撃が、サルガッソの胸元を鮮やかに切り裂いた。
それは、空間のルールに依存しない、純粋な魔力と技術の結晶。
「あ、が……ぁ……っ」
サルガッソは血を吐きながら崩れ落ち、自らが作り上げた迷宮の石畳に、その無様な身体を横たえた。主の意識が遠のくと共に、あちこちに展開されていた"領域"が霧のように消えていく。
静寂が、西棟を支配した。
シャウルは肩の力を抜き、懐から予備の硬貨を一枚取り出して、指先で弾いてみせた。
「……全く、法だなんだと言うくせに、一番簡単なことも知らないんすか?」
彼女は、倒れ伏す"偽の裁判官"を冷ややかに見下ろし、ニヤリと口元を歪めた。
「嘘吐きは罪人の始まり、っすよ」
投げられた硬貨がチャリンと音を立ててサルガッソの傍らに転がる。
それは、嘘で塗り固められた"法廷"の、あまりにも呆気ない終焉の合図だった。




