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75話「赤の偽りを切り裂いて」

◆◇◆


 ――わたしの人生は、あの日からずっと嘘っぱちだった。


 故郷を"姫"に焼かれ、すべてを失ってから王都に流れ着いたわたしが、最初に学んだのは"生き残るための嘘"だった。


 頼れる身寄りもなく、飢えに震える少女(わたし)が身を寄せたのは、光の届かない路地裏を根城にするストリートギャングの集団。そこにいるのは、皆、後ろ暗い過去を持った"嘘吐き"ばかりだった。


 大人は子供を利用するために嘘を吐き、子供はパンを盗むために嘘を吐く。


 仲間だと言い合った翌日には、銀貨数枚のために裏切り、それを"仕方のないことだ"と嘘の笑顔で正当化する。


 


(人は容易く、嘘を吐くっす)




 そんな汚泥のような環境で、わたしの鼻はいつしか、目に見えない"嘘の匂い"を嗅ぎ分けるようになっていた。


 言葉が放たれる瞬間に混じる、微かな湿気、喉の奥にへばりつく腐敗した感情。


 その特技を武器に、わたしはいくつもの組織を渡り歩き、情報を売り、危ない橋を渡って生きてきた。



(嘘を吐いても、心がこれっぽっちも傷付かない連中が、この世には掃いて捨てるほどいるっす)

 


 ――けれど、嘘で塗り固めた人生は、長くは続かない。

 ちょっとした不手際。些細な計算違い。


 わたしは、王都でも指折りの厄介な組織に目をつけられ、すべてを奪われて追われる身となった。


 

(ああ……わたしの人生。全部、嘘っぱちだったんだな――)



 冬の入り口の、冷たい雨が降る夜だった。


 飢えと、逃亡の疲労。限界を超えた身体は、ゴミ捨て場の隅にある裏路地の一角で、糸が切れたように崩れ落ちた。


 視界が白く霞んでいく。雨の音さえ遠くなる中で、わたしはただ、自分の終わりを冷めた気持ちで待っていた。


「――旦那様、ノクティア様! こちらに、倒れている人がいますよ!」


 微かに届いたのは、鈴の鳴るような、透き通った声。


 霞む視界の端に、不安げに揺れる灰色の髪が見えた。

 

 そして、近づいてくる重厚な革靴の音。


 その人は、泥にまみれたわたしを汚いとも思わずに抱き上げ、静かに言った。



「……大丈夫だ。もう、嘘を吐かなくていい場所へ連れて行こう」

 


 その人の服からは、古い書物と、夜の風のような、ひどく落ち着く匂いがした。


 嘘の匂いが、まったくしない――そんな人に、生まれて初めて出会った瞬間だった。


 そうして、わたしはグラスベル邸に拾われた。


 わたしの新しい名前は、シャウル。


 あの雨の日、わたしを救った"嘘のない匂い"こそが、わたしの世界のすべてになった。



◆◇◆


◆◇◆


「――っ!」


 死角から迫る、空気を裂く断頭の冷気。


 振り向く暇もない。首筋をなぞる死の感触に、わたしが反射的に目を閉じた、その刹那。


 ――ガギィィィィィィィンッ!!


 硝子が激しく激突するような、鋭い破砕音が響いた。


「――っ、させませんぞ。このバナビーの目の黒いうちは、これ以上!」

 わたしの目の前に、銀色に輝く巨大な鏡の盾が割り込んでいた。


 バナビー。ミラク様の従者である老紳士が、その細い身体からは想像もつかない剛腕で、不可視の斬撃を真っ向から受け止めていた。


「そのために、私はミラ様から、この力を授かったのです。……若き狼よ、ここは私に任せなさい」


 バナビーが静かに笑う。だが、その背中には既に無数の切り傷が走り、白いシャツは赤く染まり始めていた。


 廊下の先、椅子に踏ん反り返ったサルガッソが、不快な笑みを深くした。


「あらやだァ、かっこいいわねェ。おじ様ァ、あと二十年も若かったら、ワタシが直々に粉をかけてあげたかもォ」


 サルガッソは楽しそうに扇子で口元を隠し、だがその眼光に底知れない毒を込めた。


「でも、残念ねェ。ワタシの許可なく歩いちゃいけないなんてルールはないけれど――『法廷規則その3、許可なき後退を禁ずる』。……残念、違反よォ。許可なく後ろに下がるのは、この法廷では重罪なのォ」


「な……っ!?」


 バナビーの身体が、一瞬だけ揺らいだ。


 斬撃を防いだ際の衝撃で、ほんの数センチ、足が後ろに滑った。


 ただ、それだけのことで――。


 ――空間が、意志を持った刃と化してバナビーを襲った。


 防ぐ間もなく、老紳士の肩、腹部、太ももが、見えないギロチンによって刻まれる。


「……ぐ、ぅ、ぅ……っ!」


 バナビーが思わず膝を突く。盾が石畳に当たり、重い音が反響した。


「バナビー!」


 ミラク様が悲鳴のような声を上げ、駆け寄ろうとする。だが、彼女もまた、自分の周囲に展開した"虚人"たちを動かせずにいた。迂闊に動けば、今度は彼女自身が、あるいは背後の非戦闘員たちが、どんな理不尽な"規則"で裁かれるか分からない。


「――っ、サルガッソぉぉぉおっ!」


 憤怒に突き動かされ、ミラク様が虚空から現れた硝子の刃を手に、サルガッソへと飛びかかった。分身を捨て駒にし、強引に"赤の女王"へと肉薄する。


 けれど、サルガッソの余裕の表情は微塵も崩れなかった。


「あらやだ、はしたないわねェ。でも、駄目よォ。『法廷規則その1。法を司るものに、危害を加えてはならない』……判決、有罪(ギルティ)よォ!」


 ――ドォンッ!!


 空中で、ミラク様の身体が"何か"に叩き伏せられた。

 見えない壁か、あるいは重圧か。彼女の可憐な身体は石畳に叩きつけられ、その衝撃で分身たちが陽炎のように霧散していく。


「あ、ぅ、ぅ……っ」


 地面に倒れ伏し、荒い息をつくミラク様。

 バナビー様も動けず、ミラク様も伏した。


 圧倒的な力。理不尽なルール。この空間そのものが、サルガッソという男の欲望を満たすための、一方的な処刑場と化していた。


 崩れた均衡の中で、わたしは独り、立ち尽くしていた。

 鼻を突くのは、人魚兵たちの死体の臭い。


 そして、サルガッソから漂う、鼻が曲がるほどの"安い嘘"の匂い。 



 ――"姫"は、悪だ。



 わたしの家を焼き、家族を奪った存在。


 このサルガッソを従え、フォーマルハウトを血に染めている"マッチ売りの少女"やアルゴラと呼ばれた少女。彼女たちは、わたしの忌むべき"姫"そのものだ。


 けれど。


 目の前で、ボロボロになりながらも人を守ろうとしているミラク様はどうだろう?


 自分の誇りを傷つけてまで、わたしの盾になったバナビー様は?


 そして、わたしに「嘘を吐かなくていい」と言ってくれたノクティアお嬢様は?


 彼女たちは"姫"、あるいは、それに連なる者たちだ。


 けれど、普通の人間と何ら変わらず、むしろそれ以上に、他人のために傷つくことを選んでいる。



(……わたしは、何を信じればいいっすか) 



 ――迷うな。

 ――決まっている。



 信じられるものなんて、この世に絶望していた頃から、自分自身しかいなかったはずだ。

 

(――なら、わたしは信じるっす。)


 自分の鼻が嗅ぎ取った"真実"を。


 ノクティア様から漂う、あの夜の静寂のような匂いを。

 ミラク様が流す、あの悔しさに満ちた涙の熱を。


 これらは、嘘じゃない。

 


 わたしは、立ち上がった。



 魔法の力も、神速の武も、何一つ持っていない。


 けれど、わたしは今日、この場所で、初めて"自分の心に嘘を吐かない"ことを選び取った。


「――ミラク様、バナビー様。聞こえるっすか」


 わたしの声に、サルガッソが怪訝そうに眉を上げた。


 わたしは一歩、また一歩と、前へと歩み出す。


「おやおやァ、野良犬ちゃん。まだ吠える元気があったのォ? 近寄ったら"不敬罪"で首が飛ぶかもよォ?」


「……もう、嘘はたくさんっす」


 わたしは、サルガッソの欺瞞に満ちた、どぶ川のような瞳を真っ向から睨みつけた。


 わたしの鼻は、もう捉えている。

 アイツが口にした、欺瞞(ぎまん)の匂いを。

 

「ミラク様。バナビー様。あたしが今から、指示を出すっす。……あんたの言いなりになんて、もう一秒もならないっすよ」


 わたしは鼻を鳴らし、不敵に笑ってみせた。



「こんなくだらない法廷(ちゃばん)、あたしがとっとと閉廷(おわり)にしてやるっす!!」



 わたしの宣言が、鏡の迷宮に鋭く響き渡った。



◆◇◆


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