74話「硝子の右目」-後
瓦礫に塗れ、脱力感に包まれた中で、アルトは思考する。
(……ここまで、か。俺は父上とは違う。結局、何も守れないまま……ここで終わるのか……)
意識が暗転しかける。
冷たい諦念が、潮水のように全身を浸していく。
その時。
脳裏に、あの硝子の輝きを纏った少女の声が響いた。
『――あなたは、あなたの戦いをしなさい! 自分の足を、止めるんじゃないわよ!!』
あの言葉。
彼女が俺に託したのは、"誰かの代わり"になることじゃない。
あれは俺自身が、俺として、彼女の隣に立つためのものだったんじゃないのか?
「――俺は」
父上のような英雄になりたかったんじゃない。
最強を目指していたわけでもない。
ただ――。
「……ああ、そうか。そうだったんだな……」
アルトの指先が、ぴくりと動いた。
全身の激痛が、心地よい熱へと変わっていく。
彼は壁を支えに、ゆっくりと、だが確実な足取りで立ち上がった。
ボロボロになり、血に染まった眼帯が、ぷつりと音を立てて千切れ、夜の風に舞う。
その下――。
十年前に失われたはずの右目の奥底で、一筋の銀光が胎動を始めた。
「……俺は、ノクティア様の騎士になりたかったんだ」
誰にも邪魔させず、彼女が進むべき道を切り開けるような。
どんな絶望が降り注いでも、最後まで彼女の隣で笑っていられるような。
最強なんて肩書きはいらない。
ただ、彼女一人を完璧に守り切れる。そんな、最高の騎士に。
「――っ、おお?」
ドゥーベが、足を止めた。
目の前に立つ少年の放つ空気が、一変していたからだ。彼が立ち会い、そして喰らうのに相応しい――"強者"のものに。
アルトの右目。そこには、在るべき眼球の代わりに精緻な"硝子の輝き"が宿っていた。
冷たく、澄み渡り、世界のすべてを屈折させて読み解くような、銀色の眼球。それは、あらゆる"虚実"を見透かすように、ドゥーベを見据えている。
「……顔付きが変わったな、小僧。死に際にしてようやく、戦士の眼になったか。……名を聞こう」
彼は初めて、一人の戦士としてアルトに対峙した。
アルトは折れた剣を正しく構え、硝子の右目を爛々と輝かせた。
「……アルタイル・オレオーン。硝子の姫を護る者の名だ。……冥府にまで、持っていけ」
「ハッ、我はドゥーベ・ヴァルガス! "虚言の怪物"のドゥーベだ、この名を刻んで死んでいけ!」
ドゥーベが爆発的な踏み込みで肉薄する。
予備動作ゼロ。質量数倍。
本来なら回避不能の死の一撃。
だが。
アルトの視界では、世界の解像度が極限まで引き上げられていた。
空気の震え、ドゥーベの筋肉が収縮する際の微かな音、重力の偏り。
それらがすべて、銀色の"線"となって可視化される。
(……見える。いや、視える……ッ!)
アルトは最小限の動きで、ドゥーベの剛拳を紙一重でかわした。
続けざまに放たれる、関節を無視した裏拳。それすらも、背中に目があるかのような動きで回避し、すれ違いざまにサーベルを一閃させる。
――キィィィィィィィンッ!!
硝子が擦れるような鋭い音が響く。
ドゥーベの、鋼鉄より硬いはずの頬に、一筋の赤い鮮血が走った。
「……ぬ!? 我を……我を傷つけたか! 小僧ォォ!!」
慮外の強敵。想定外の痛み。
ドゥーベの瞳に、狂喜に近い戦慄が走る。
二人の影が、燃える広場で激しく交錯した。
直線的な打突――躱して、脇腹への突き。
牽制の膝蹴り――いなして、背中側へ。
裏拳一閃――躱すと同時に、背中を一文字に切り裂いた。
「――ッ、貴様、我が動きが追えているというのか……!?」
初めて、ドゥーベの顔に驚愕の色が浮かぶ。
そう、アルトには"視えて"いた。
正確には、彼の目が見ていたのは、前後の行動から判断した"予測"、そして、ドゥーベの不規則な攻撃の合間に、わずかに生じる"論理の穴"だった。
正しく――数瞬先の未来を視る目。
一刻を争う戦場において、その価値は計り知れないものがある。
(――いける!)
確信とともに、アルトは一歩、踏み込んだ――。
――だが、その奇跡のような力は、あまりに儚い代償の上に成り立っていた。
「……っ!」
――パリン。
アルトの脳内に、冷たい音が響いた。
硝子の右目に、微かなヒビが入る。
「ッ、が、あああああっ……!」
目の奥から走る、壮絶な頭痛。
未完成な、目覚めたばかりの"力"は、只人の神経を焼き切り、精神を磨り減らしていく。
銀色の世界が、ノイズ混じりの灰色の空へと戻り始める。
「残念だが――これで、終わりだッ!!」
ドゥーベの、質量を極限まで高めた一撃が、アルトの胸部を直撃した。
防御に回したサーベルが粉々に砕け散り、アルトの身体は再び地面へと叩き伏せられる。
右目の輝きが失せ、激痛が津波のように押し寄せる。指先一つ、もう動かせない。
視界が霞む中、ドゥーベの巨大な足音が近づいてくる。
(……ここまで、か……ノクティ、ア……)
トドメの一撃を確信し、アルトがそっと目を閉じた、その時。
「――なんだ、つまらん。もう余興は終わりか?」
広場を支配していたドゥーベの殺気を、上書きするような"冷気"が満ちた。
ドゥーベが、足を止める。
その背後。
燃え盛る炎の中に、場違いなほど優雅な身なりをした、黄金の髪の青年が立っていた。
ガーランド皇太子、リゲル。
そして、その傍らで静かに剣を提げている、一人の男。
"人類到達点"ヴェルギウス・クラインが、感情の欠片もない瞳で、怪物を見据えていた。




