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74話「硝子の右目」-前

◆◇◆


 ――俺は、何になりたかったんだろう。


 幼い頃、父上の背中を見上げていたあの日は、ただ漠然と"騎士"になりたいと思っていた。


 王国の人々を守り、弱きを助け、不義を許さない。黄金の獅子と謳われたタラゼド・オレオーンのような、眩しくて気高い太陽のような存在。


 けれど、現実は無情だった。


 俺には父上のような、すべてを守り切る圧倒的な統率力はない。


 サダルスウドのように世界を歪める魔法も、ヴェルギウス卿のように、あらゆるものを断つ神速の武も持ち合わせていない。


 俺はただの、中途半端な騎士見習いだ。


 主君であるはずの少女に守られ、その背中に縋るしかできなかった、臆病な少年。


『今の私は――"間に合わなかったシンデレラ"なのよ』


 あの砦での戦いの直後、悲壮な決意を瞳に宿して、彼女はそう言った。


 その顔が、頭から離れない。


 魔法に選ばれ、理不尽な運命を押し付けられながらも、彼女は必死に"自分の戦い"をしようとしていた。


 それなのに、俺は。



 ――いや、違う。



 俺がなりたかったのは、英雄じゃない。

 最強の戦士でも、伝説の騎士でもない。

 

 ――俺は。



◆◇◆


◆◇◆


「あっちだ! 早く逃げろ! 運河沿いの路地は火が回っている、北の広場へ向かうんだ!」


 晶潮館の外部へと弾き飛ばされたアルトは、燃え盛るフォーマルハウトの市街地で、喉が枯れるほど叫んでいた。


 空からは鏡の破片が雪のように降り注ぎ、街のあちこちでは帝国の急進派と思われる兵士たちが、エリダヌスの人魚兵と衝突している。略奪、破壊、そして虐殺。美しかった都は、たった数刻で血と硝煙に塗れた戦場へと変貌していた。


(これが、今の俺にできる"戦い"だ……!)


 アルトは右目の眼帯を血と汗で汚しながら、怯える老婆の背を押し、迷子の子供を抱え上げた。


 迷宮の中にいるノクティアの元へ今すぐ駆けつけたい。その焦燥に胸が裂けそうだったが、自分を隔てているのは、あの巨大な鏡の外壁だ。今、自分ができることは、目の前で助けを求めている人々を救うこと。それだけだと自分に言い聞かせた。


 ――だが、その決意を打ち砕く、地を揺らすような重低音が響いた。


「――ヌぅぅぅ、つまらん! つまらんぞォ、エリダヌスの雑兵どもめッ!!」


 避難民の待機列のすぐ先。


 十数人の人魚兵たちが、まるで紙屑のように宙に舞った。


 血飛沫が霧となって舞う中、そこに立っていたのは、人間の規格を遥かに超えた巨躯を持つ大男だった。


 盛り上がった筋肉は鋼のような質感を持ち、剥き出しの腕には、生物としての論理を逸脱した不気味な"爪"が備わっている。


「我こそはドゥーベ・ヴァルガス! 不思議の"姫"より、"虚言"の力を賜った者なり!」


 ドゥーベと名乗ったその男は、逃げ惑う民衆など目にも入っていないようだった。


 何の躊躇もなく、その剛腕が振り上げられる。


「ただひたぶるに、我が肉体を躍動させる強者との戦いを所望せんッ!!」


 彼が軽く腕を振るう。


 それだけで、避難民を守るために張られた結界が飴細工のように砕け散った。


 その巨大な一歩が、逃げ遅れた子供のすぐ傍に踏み下ろされる。


「……待てッ!!」


 アルトは反射的に飛び出していた。


 腰のサーベルを抜き放ち、巨漢の懐へと鋭い刺突を見舞う。


「……ん? なんだ、貴様は」


「何者でもよかろう、そこまでにしておけ、さもなくば――」


 ドゥーベが笑った。と、俺が認識できたのはそこまでだった。


 腹部に、強い衝撃。同時に、景色が後方に流れ、強い浮遊感が全身を襲う。


(――殴られた? だが……!)


 予備動作が、まったくない。


 認識するよりも、遥かに速く、ドゥーベと名乗った男の肘が、本来曲がるはずのない方向へと逆に関節を曲げ、アルトの腹部を殴り抜けていた。


「が、はっ……!?」


 息が止まる。


 アルトの身体は地面を数メートルも滑り、広場の噴水の縁に叩きつけられた。


 肺の中の空気がすべて吐き出され、視界がチカチカと火花を散らす。


「重さが、違う……!?」


 ただの打撃ではない。殴られた瞬間、ドゥーベの拳には、家一軒分を押し潰すような超質量が宿っていた

 ドゥーベは愉悦に顔を歪め、不自然に肥大した爪をガチガチと鳴らした。


「我の肉体は、この世で最も重く、鋭い。論理(ルール)など知らぬ。物理(ことわり)など知らぬ。ただ、我の意志のままに敵を砕くのみよッ!」


「……んだよっ、その、出鱈目……!」


 アルトは血を吐きながら立ち上がる。


 サーベルを構える。彼はそれしか知らなかった。彼があと、もう少し――例えば、"砂の鬣"のような賢さを有していれば、結果は変わったかもしれない。


 

 しかし、彼は愚直に、何度も、何度も斬りかかった。



 だが、ドゥーベの動きは、そんな彼の不屈の信念を、完全に嘲笑っていた。


 踏み込みがないのに眼前に現れ、関節を無視した角度から、質量変動を伴う暴力が飛んでくる。


 打たれ、弾かれ、吹き飛ばされ。


 アルトのサーベルは刃こぼれし、右肩は脱臼し、ついには壁に叩きつけられたまま動けなくなった。


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