73話「赤の法廷」
◆◇◆
――わたしの家族は、帝国の"姫"に焼かれた。
その記憶は、いつだって頭の奥にこびりついている。
焦げた部屋の匂い、沸騰した脂の混じった嫌な熱気、そして、空一面を覆い尽くす黒煙。帝国の侵略を受けたあの日、わたしの世界は一瞬で灰になった。
瓦礫の下に挟まり、身動き一つ取れなかった少女の視線の先。燃え盛る街を、まるでお散歩でも楽しむかのように軽やかな足取りで闊歩していた、古い頭巾を被った小柄な"姫"の姿を、わたしは一生忘れない。
あの日、わたしの中で"姫"という存在は、絶対的な悪そのものになった。
人の命を奪い、国を焼き、それを"童話"の続きだと言って笑う理不尽の化身。それがわたしの知る"姫"のすべてだった。
なのに。
「そんなことないですよぅ、ノクティア様は、とってもいいお方です!」
グラスベル邸、使用人の同僚だったスピカは、よくそう言って笑っていた。
灰色の髪がふわふわと揺れて、小動物のように愛らしかったあの子。彼女だって、わたしと同じように、帝国の"姫"によって家族を、故郷を奪われたはずなのに。
どうして、自分たちと同じ傷を持つはずの彼女が、同じ"姫"であるノクティア様をあんなにも曇りのない瞳で信用できるのか、わたしには到底理解できなかった。
「シャウルさん。いつか、ノクティア様とお話ししてみてください。きっと、あなたの鼻ならわかるはずですよ。お嬢様の"匂い"が、あいつらとは違うって」
それが、スピカとの最期の会話の一つだった。
あの子がレグルス砦の戦いで、冷たい骸に変わる、ほんの少し前のこと。
今でも、思い出す。
あの子の純粋な言葉と、わたしの胸に燻り続ける、消えない火傷の跡を。
この傷は、まだ痛み続けている――。
◆◇◆
◆◇◆
――ガツンッ、と鈍い衝撃音が、晶潮館・西棟の廊下に反響した。
バナビーが構えた巨大な鏡の盾が、虚空から飛来した"見えない斬撃"を弾き返す。
だが、その衝撃は凄まじく、老紳士の細い足が石畳の上を数センチ後退した。
「……ミラク様、お怪我はありませんかな」
「大丈夫よ。でも、これじゃキリがないわ……!」
ミラクは額に汗を浮かべ、周囲に展開した"七人の虚人"を必死に操っていた。
彼女たちの背後には、逃げ遅れたエリダヌス連邦の文官や、怯える使用人たちが固まっている。わたしはその少し離れた場所で、非戦闘員たちを庇うように立ち、戦場を睨みつけていた。
周囲には、訳もわからず命を落とした人魚兵たちの死体が、無惨に転がっている。
彼らを殺したのは、真っ向からの剣技ではない。
空間そのものが牙を剥き、不可解なタイミングで首を、手足を、胴を跳ね飛ばす――理不尽なまでの"処刑"だ。
「あらあらァ? ミラク様ァ、"姫"様なのに無様なお姿ねェ?」
廊下の突き当たり、豪華な椅子の背に腰を下ろしているのは、帝国の刺客――サルガッソと名乗った男だった。
どこか人の良さそうな、柔らかい笑みを浮かべた、奇妙な口調の男。だが、その瞳だけは笑っていない。濁った沼のような色で、こちらの消耗を愉悦と共に観察している。
「うるさいわね、すぐにでも、その首を斬り落としてやるわ……!」
ミラクが分身の一人をサルガッソへと突撃させる。
だが、刃が届く直前、何もない空間からギロチンの刃を思わせる断頭の風が吹き抜け、分身を無慈悲に引き裂いた。
「もう、女の子がそんな乱暴な口の聞き方しちゃ、だめよォ。『法廷規則その12、何人たりとも他人を殺害することを示唆する言葉を吐いてはならない』。違反ねェ、ミラク様ァ」
サルガッソが優雅に扇子を広げる。
「ここはワタシの法廷、"赤の女王"の領域なのォ。ワタシが決めたルールは絶対よ。破った子には、等しく死という名の判決が下されるのォ。ふふ、公平でしょォ?」
「……何よ、そのふざけた魔法……!」
ミラクは歯噛みし、守りを固めるために分身を自分の周囲に集中させた。
その一瞬の、隙だった。
「――あ」
背後で短い悲鳴が上がった。
ミラクの守備範囲からわずかにはみ出していた、年若い文官の首が、音もなく空中に舞った。
「なぁ〜んて、嘘よォ。そんな規則はないわァ。規則を破ったのは後ろのその子、『法廷規則その22、中指の爪を噛んではならない』ねェ。あらあら、お行儀が悪いんだからァ」
「……あなた、どうして……ッ!?」
ミラクの声が戦慄に震える。
サルガッソは、戦っている最中にすら、息を吐くように嘘を吐く。
どれが本当のルールで、どれが嘘なのか。その判断を一瞬でも迷えば、背後の誰かが死ぬ。
「ワタシが真っ向からやったら、"姫"に勝てるわけないじゃないィ。お姉様が事を成すまで、ここで大人しくしといてもらうわよ、ミラク様ァ。……ああ、動いちゃダメよォ? 『法廷規則その18、ワタシの許可なく三歩以上進んではならない』なんてルールがあったりなかったりするからァ」
ケラケラと笑う顔には、悪辣な色が貼り付いていた。
(アイツの言葉は、嘘ばっかりっす)
わたしは、鼻につく強烈な違和感に顔を顰めていた。
サルガッソの全身から漂うのは、腐ったどぶ川のような、不快な"嘘"の匂いだ。
彼は言葉を武器に、この空間の理を弄んでいる。
戦況を見ていながら、わたしの心は、激しい葛藤に揺れていた。
目の前で必死に人を守ろうとしているミラク。
そして、これまで見てきたノクティアお嬢様。
彼女たちは"姫"だ。本来なら、わたしの家族を殺したあいつらと同じ、忌むべき存在のはずなのに。
どうして、彼女たちはあんなにも必死に、傷つきながら、誰かのために戦えるのか。
わたしの脳裏に、あの男の、食えないハイエナのような顔が浮かんだ。
『あいつらが、本当に悪いもんなのかどうか、お前の目で見極めてくれ』
ギエナさんは、そう言った。
お嬢様を信じ、自分を捨て石にしてまでこの戦いに身を投じている、あの人。
『そしてもし、良い奴らだってわかったら――全霊で、協力してくれよ』
ギエナさんの覚悟。スピカが信じたもの。
わたしの鼻は、今、何を嗅ぎ取っているのか。
ミラクから漂うのは、必死に自分を律しようとする硬質な匂い。
ノクティア様から漂うのは、どこか懐かしい、夜の静寂のような匂い。
(……あいつらとは、違うっす)
わたしを焼いた、あの冷酷な炎とは、明らかに匂いが違う。
「……ギエナさん、わたしは……」
ぽつり、と。
無意識にこぼれた言葉。
その瞬間、サルガッソの口元が、三日月のように歪んだ。
「――見ぃーつけたァ。死角でコソコソ迷ってる、野良犬一匹ィ」
サルガッソの瞳が、わたしを捉える。
「『法廷規則その13、ここにいない誰かの事を口にしてはならない』。ふふ、違反ねェ。判決……死刑よォ!」
空間が鳴動した。
わたしの真後ろ。回避不可能な死角から、空気を絶つ断頭の刃が、音もなく迫る。
(――ッ!)
振り向く暇もない。
死の冷気が、わたしの首筋をなぞった。




