72話「"英雄"になれぬ男」-前
◆◇◆
――俺は、"不落の獅子"にはなれなかった。
鼻腔を突くのは、焦げた石材の匂いと、微かな潮の香り。そして、自分自身の内側から競り上がってくる、錆びついた鉄のような血の味だ。
視界の端で、鏡の破片がキラキラと、無責任なほど美しく輝いている。
かつてヴァルゴ王国には、一頭の黄金の獅子がいた。
タラゼド・オレオーン。
あいつは太陽だった。その背中はあまりに眩しく、真っ直ぐで、並び立つ者すべてに"正義"という名の呪いを振りまくような男だった。
騎士道、名誉、献身。そんな眩しい言葉を地で行くあいつの隣で、俺はいつも、砂埃にまみれた自分の影を見つめていた。
俺は、あいつのように気高くはなかった。
真っ当な騎士のように、強くもなかった。
あいつが「守るべき者のために剣を抜け」と吠える裏で、俺は「どうすればより確実に、汚い手を使ってでも生き残れるか」を計算する男だった。
俺は獅子になれなかった。ただの、砂に塗れた、死肉を漁るハイエナ。それが俺――ギエナという男の分相応な正体だった。
だというのに、どうしてだろうな。
あの日、あいつが"姫"という名の理不尽に立ち向かい、その命を散らしたと聞いたとき。
俺の胸を焼いたのは、安堵ではなく、抉り取られるような劣等感だった。
あいつは、英雄として死んだ。
俺は、狡猾に生き残っちまった。
英雄のいない王国で、俺はハイエナとして生き続け、あらゆるものの影として汚れ仕事を請け負ってきた。だが、腹の底ではずっと、問い続けていたんだ。
死ぬ場所を間違えたんじゃないか、と。
ハイエナだって、一度くらいは獅子の真似事をして、何かのために、誰かのために、その命を使い切ってみたくなる夜がある。
そして今、目の前にあるのは、あの時あいつを殺したのと同種の、理不尽なまでの暴力だ。
俺が命を使い切るには――良い頃合いだろう。
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「――おじさん、また黙り込んじゃってさ。怖いの? それとも、もう諦めちゃった?」
鏡の迷宮と化した晶潮館・東棟。
広間の中心、重力を無視して宙に浮かぶサダルスウドが、退屈そうに首を傾げた。
少年の周囲には、無数の"卵"が浮かんでいる。
昨日、お嬢様から聞いた話によれば、あれは触れるものを粉砕する斥力の塊だ。只人の身で触れれば、後に残るのは無様な挽肉が一つ。
視覚化された"死"は、いつだって視界を狭くする。だからこそ、俺は軽口を飛ばす。
「……諦める? 冗談じゃねえ。おじさんはね、こう見えて粘着質な方でね。一度決めた仕事は、最後までやり遂げないと寝覚めが悪いんだわ」
俺は太刀を低く構え、呼吸を整える。
背後には、ノクティアお嬢様がいる。
日はまだ沈みきっていない。この鏡の迷宮の中では、外の光が異常に屈折し、お嬢様の"シンデレラの力"とやらを封じ込める残酷な残光となって降り注いでいる。
(……つまり、ここでお嬢様が動かせる戦力は、俺一人ってことだ)
皮肉なもんだ。騎士ですらねえ、誇りもねえ俺が、たった一人で特使を、姫を守らなきゃならねえ。
「ギエナ、駄目、無茶しないで!」
お嬢様の声が響く。お優しいことだ、この状況ってもんが全く見えちゃいない。
男が一匹、格好つけようとしてんのに、まったくよ。
「……へっ、ここで俺が無理しなきゃ、誰がするってんだよ」
そんな言葉は、どこに届くこともなく。
どろり、浮かんだ人形のようなシルエットが、歪に駆動する。
「いくよぉ。――落ちろぉ!」
サダルスウドが指を弾く。
三つの卵が、鋭い風を切って俺を襲う。
「お嬢様、俺から離れないでくだせえ!!」
俺は一歩踏み出し、地面を滑るように移動した。
昨日の戦闘――その一部始終は、お嬢様から聞いた話を頭に叩き込んでいる。
あれは爆弾じゃない。空間を押し広げる力だ。ならば、弾ける"中心"さえ見極めれば、その隙間を潜り抜けることは可能。
俺には"魔法"なんてもんはさっぱりわからない。それでも、"そういうこと"なのだと織り込めば、戦うことはできる。
(――もっとも、理不尽なことにゃ変わりねえがな!)
ヒュン、という耳障りな音が通り過ぎる。
斥力が炸裂し、背後の巨大な鏡面を粉々に打ち砕いた。
破片が頬を掠め、鮮血が飛ぶ。だが、俺の足は止まらない。
「おっと、そらよッ!!」
俺は砕けた鏡の破片を、太刀の腹でサダルスウドへと弾き飛ばした。
ただの牽制だ。だが、その隙に俺は一気に距離を詰める。
踏み出した一歩。石畳を削る音が鏡張りの広間に反響し、俺はあえて正面から突っ込んだ。
サダルスウドが愉快そうに指を弾く。
「あはは、バカぁ? 直撃しちゃうよ?」
俺の鼻先で卵が膨れ上がる。だが、弾ける寸前、俺はあえて剣を鞘に収め、その反動で身体を無理やり横に捻った。抜刀術の応用じゃねえ、ただの強引な重心移動。爆風の"外圧"を、回避ではなく加速のエネルギーに変換する。
「――ッ!」
熱が頬を焼き、衝撃で肺の空気が押し出される。だが、止まらねえ。爆炎の幕を盾にするようにして、俺は奴の死角――浮遊している足元へと滑り込んだ。
鏡の反射を利用し、四方八方に映る自分の影を撹乱として撒く。
右に一人、左に三人。鏡面を蹴り、多角的な軌道で少年の喉元を狙う。




