71話「"マッチ売りの少女"と鏡の迷宮」-後
魔法すらもねじ伏せる、人としての限界に辿り着いた男。その一刀は、外なる世界の法であれ、構うことなく切り捨てる。
「……ふん、大層な口を利くものだが、大したことは――ッ!?」
"棘無し"の言葉は、そこで途絶えた。
――切り裂かれた少女の身体から、血の一滴も流れなかったからだ。
彼女の姿は、陽炎のように揺らぎ、無数の光の破片となって霧散していく。最初からそこには、虚像しか存在しなかったのだ。
「幻影……!」
ヴェルギウスが初めて驚愕に目を見開く。
消えゆく少女の残影。その唇が、ぽつりと何かを呟く。
「では、アルゴラ。"お掃除"をお願いしますよ」
その言葉を合図にするようにして、消えゆく影の中から、"それ"は這い出してきた。
まず見えたのは、美しく揺れる長い髪。ところどころに赤く、塗料のようなもの――否、血液が飛び散ったロリータ服に身を包んだ、可憐な、あるいは幻想的な少女だった。
ただ、その瞳には一切の光がなく、深い奈落の底を覗き込んでいるような、形容しがたい恐怖を撒き散らしている。
私と――そして、恐らくその場にいた"姫"たちは、本能的に理解する。その存在が秘めた、危険性を。
「……かああああああああしこまりぃ、お姉様ァ」
少女が低く、感情の欠落した声で呟く。
瞬間、私の神経の浅いところを、警戒の槌が叩いた。何かが来る。それに、身を固めたのと、ほぼ同時――。
「――開けぇえ、"夢の迷宮"」
彼女が虚空を指先でなぞると、晶潮館の物理的な構造が、音を立てて崩壊し始めた。
狂ったように笑う、アルゴラと呼ばれた少女を中心に、無数の鏡が立ち上がる。
豪華な壁が、天井が、床が、まるで砕けた鏡の破片のように剥がれ落ちていく。代わりに現れたのは、上下左右の概念すら消失した、無限に増殖する"鏡の迷宮"。
私たち、そして、各国の特使たちは、それに抗うこともできずに飲み込まれていった。
「……なんだこりゃ、空間がねじ曲がって……っ!」
ギエナが叫び、咄嗟に私を引き寄せる。手の届く位置には、シャウルやアルトの姿もあった。私は、反射的に手を伸ばす。
だが、鏡面が放つ白銀の衝撃が、私たちの身体をバラバラの方向へと弾き飛ばした。
「ノクティア様!!」
アルトが、私を助けようと必死に手を伸ばした。
だが、私たちの間に、厚く、冷たい鏡の壁がせり上がる。
「アルト! ダメよ、こっちに来ちゃいけないわ!」
鏡の向こうへと、強制的に遠ざかっていく少年の姿。彼だけでなく、西棟の方へ弾かれたシャウルの気配も、急速に遠のいていく。
「ノクティア、様……っ! まだ、"俺"は、あなたを……!」
鏡の迷宮に呑み込まれながらも、私を失うことを恐れて必死に手を伸ばす、痛切な叫び。
私は、その目の奥に、今までの未熟な彼とは違う――意思の光が輝いているのを見けた。
彼も、覚悟があってここにいたのだ。ならばと、届くよう、精一杯の声を張り上げた。
「大丈夫よ、アルト! こちらはギエナがついているわ! あなたは、自分の戦いを――あなたにできることを、しなさい! 自分の足を、止めるんじゃないわよ!!」
その言葉を最後に、白銀の世界が完全に私たちを隔つ。
耳を打つのは、無数の硝子が擦れ合う、不気味な不協和音。
美しかった晶潮館の景色は歪み――屈折し、歪に反射しては、ギラギラと輝いている。
私は立ち上がり、辺りを確認する。どうやら、随分と遠くまで飛ばされたようだ。
「こりゃあ、とんでもねえ"魔法"だ。シャウルの嬢ちゃんや、アルト坊ちゃんは大丈夫ですかねぇ」
隣には、太刀を抜き放ち、鋭い眼光で周囲を警戒するギエナ。
私は、静かに確かめる。まだ、魔法は使えない。つまり、私が頼ることができる戦力は、彼一人しかいないということだ。
「……やれやれ。最悪のシナリオってのは散々予想してやしたがね、こんなのは斜め上ですぜ、お嬢様」
「ええ……ここは、晶潮館の東棟かしら。シャウルは、逆方向に飛ばされていたわね……」
とにかく、すぐにでも合流したいが――難しいだろう、とも思う。恐らく、この"迷宮"は、私たちを分断するのが目的だ。
ならば、二人もそれなりに遠くまで飛ばされてしまったに違いない。
「二人のことは気になりますがね、今は、こっちのこと考えねえと。何せ、おじさんたちは揃って、敵さんの掌の中にいるんだからよ……!」
苦々しく口にするギエナの言葉に、思わずハッとする。二人のことは気になるが、今はそれどころではない。この場を切り抜ける方法を考えなくては。
「……ええ、そうね。とりあえず、一度外に出てみましょうか」
"マッチ売りの少女"。
そして、その影から現れた、アルゴラと呼ばれた彼女もまた、恐らく帝国の"姫"だ。
戦うにも逃げるにも、私の魔法が使えるようにならなければ、立ち向かうこともできないだろう。
時間稼ぎは必須。となれば、ここは一旦。と、私がそう踵を返そうとした――その瞬間だった。
「……お嬢様、そいつぁ!」
最初に気が付いたのは、ギエナだった。私も一瞬遅れて気が付く。
私の足元に転がってきたのは――小さな、一つの"卵"だった。
「……っ!」
蘇る、苦い記憶。
私の体が、反射的に防御姿勢をとるのと、その爆風を感じるのは、ほとんど同時だった。
至近距離での爆発。体の前面に突き出した両手に感じる熱と風に、思わず目を瞑った私は、ゴロゴロと地面を転がる。
――爆発する、"卵"。つまり、これは。
「やあ、また会ったねえ、お姉さぁん」
間延びした声。そうして、またしてもその少年――サダルスウドは、迷宮の壁の上から落ちるようにして現れた。
「さあ、楽しい楽しい、不思議の国のひと時だ。壊れるまで、遊ぼうねぇ」
私たちの眼前で、抜き身の狂気が、再び牙を剥くのだった。




