70話「決裂と赤い影」-後
――そこからの議論は完全に平行線だった。
王国の存続を賭けた緩和案は、ガーランドの強硬策、そして、リゲルの弁舌の前に、その価値を急速に失っていく。
彼を押し留める"毒餌"はもうない。今日という短い時間では、"棘無し"を納得させるだけの根拠を提示することはできなかった。
ミラクも、完全に勢いを失ってしまっていた。派閥が違うとはいえ、この事態を招いたのは帝国だ。となれば、余計なことは口にできないのだろう。
そして――プレアデスのリラ・マイア。
彼女だけは、この緊迫した状況の中で、ただ一人、窓の外を眺めていた。
ベールの下の空虚な瞳は、何を見ているのか。
彼女だけは、読めない。アケルナルと同じ、世界の仕組みを知る"姫"の一人だ。
もしかすると彼女は、最初からこの展開を読んでいたのではないかと――そう、邪推すらしてしまう。
時間は無情にも過ぎていく。
正午を過ぎ、日は西へと傾き始めた。
会議場の硝子の壁を通して差し込む光が、夕闇の橙色を帯び始める。
それは、普段であれば魔法の時間への入り口として、私の心を支えてくれる景色だったが――今回ばかりは、そう思うこともできなかった。
「……議論は尽くされた」
長い沈黙の後、議長が重々しく宣言した。
その声には、対話を諦めた者の、乾いた冷酷さが宿っていた。
「エリダヌス連邦は、"大星潮条約"における王国側条件に、いかなる緩和の必要もないと判断する」
「……そんな」
敗北、失敗、挫折。
薄氷の上にあり、どうにか掴めるところまで来ていたそれを、私たちは取り落としてしまったのだ。
「ち、ちょっと待ってください。もう少し、話を――」
「グラスベル特使、二度は言わんぞ。議論は尽くされた。これ以上"大星潮首脳会議"を長引かせようとするのなら、ヴァルゴ王国特使団をこの度の襲撃事件の関連人物と判断する」
「……襲われたのは、私たちですよ。それに、大きな不利も被っている。なのに、どうして関連人物なんて」
「どんな不利も、国ごとひっくり返せば関係あるまい。随分と――他国の特使とも、懇意のようであるしな」
ギロリ、と。議長の視線がミラクに向けられる。
不吉な予感。そう、私たちが"関連人物"であるのならば。首謀者と思しき国は、一つしかしない。
各国に侵略行為を繰り返す、"急進派"。その存在が、今は致命的だ。
「――フォルナクス帝国、セプテニア特使」
冷たく、議長が問い掛ける。
「昨日の襲撃の際、巻き込まれた者が、帝国のものと思しき徽章を目にしている。襲撃者は、帝国の手のものではないのか?」
「――っ、それは、その……」
ミラクが言葉を失う。
これは痛い。連邦は、そのカード(もくげきしゃ)を隠し持っていたのだ。
こうなると、先ほど口にした、"帝国を騙る輩"というのも、対話を求めているというのも、全部が全部、空虚になる。仮に、彼女がどんな弁解をしようとも、もう、挽回のしようがない。
どうすればいいだろうか。例えば、この状況は一見、ガーランド陣営に有利なようにも見える。
なら、公国側に疑いを着せる?
(……それこそ、無理だ)
もし次の襲撃が起こった時に、今よりも印象が悪化しかねない。そして、帝国の"急進派"は、それを的確にやってくる嫌らしさを持っている。
それに、今のミラクに――"棘無し"を論破できるとも思えない。
「……これ以上が無いのなら、仕方があるまい」
議長が、木槌を打ち鳴らす。
「エリダヌス連邦は、フォルナクス帝国に対し、"大星潮条約"に基づく経済制裁、ならびに連邦軍による沿岸監視の強化を行うことを、ここに宣言する」
「な……っ! ちょっと、それは……!」
声を上げようとした所で、後ろから強く、ギエナに手を引かれる。
「お嬢様、落ち着いてくだせえ。今は、王国側だって崖っぷちだ。いくらあのミラク嬢に恩があったって、助けてやることはできねえ」
「……でも、このままじゃ、あの子は」
「気持ちは分かります。でも、堪えてくだせえ。考え方によっちゃ、帝国が弱体化するとも――」
――そこで、私とギエナは顔を見合わせる。
(なんで連中は、帝国の首を絞めるような真似をしたの……?)
エリダヌスからの物資や提供物、そして、交易ラインは、帝国にとっても重要なもののはずだ。
それを、手放そうとしている。そんなことをして、どんな利があるのだろうか。
(――まさか!)
私の脳裏に、最悪の考えが過ぎる。
けれど、それを言葉にするよりも前に、事態は進行していく。
「ガーランド大公国の提案する"王国の共同管理案"については、今後の王国の衰退加減を加味しつつ、随時、具体的割譲ラインを協議する。……本日の議事は、これにて――」
議長が、宣告を完結させるために木槌を振り下ろそうとした、その刹那だった。
不意に。
会場内のすべての明かりが、まるで生き物のように激しく、不自然に明滅した。
ジ、ジジッ……という、硝子が擦れるような嫌な音が、晶潮館の静寂を切り裂く。
「……何だ? 照明か何かの故障か?」
議長が眉を顰め、天井を見上げる。
だが、その明滅は一瞬で終わらなかった。
青白かった光が、徐々に、ドロリとした不気味な"赤"へと色を変えていく。
そして。
円卓の向こう側。
影の中から、現実の音ではない、何かが"めりめり"と引き千切れるような音が、響き渡った。
「……来ちゃった、かぁ」
リラ・マイアが、初めて顔を上げた。
その顔にはもう、狂気と愉悦の入り混じった笑みも、無邪気な気配もない。歴戦の"姫"として、忌々しげに、その裂け目を見つめていた。
「こりゃ、みんな、死んだかな」
瞬きをする。
次の瞬間、豪華絢爛な会議場の床には――赤い、一滴の血が、滴り落ちていた。




