70話「決裂と赤い影」-前
この街の朝は、運河に反射する陽光と、潮風に乗って届く活気に満ちていた。エリダヌスの持つ強かさと美しさを呑んだ景色は、それでも、鮮やかだったはずだ。
けれど、翌朝私たちが"碧き人魚の館"を出たとき、視界に広がっていたのは、どんよりとした灰色の空と、肌を刺すような霧の冷たさだけだった。
「……なーんか、殺伐っすね。昨日よりも、ピリピリしてるっす」
シャウルが上着の襟を立て、不機嫌そうに呟く。
彼女の言う通り、街の空気は一変していた。昨日まで並んでいた屋台は姿を消し、代わりに通りを埋め尽くしているのは、完全武装したエリダヌス連邦の人魚兵たちだ。彼らの手にする三叉槍は、陽光を反射することなく、鈍い銀色を放って通行人を威圧している。
「お嬢様、足元に気をつけなせえ。今日の水は、少しばかり濁ってやがる」
隣を歩くギエナが、声を低めて警告する。
彼の視線の先、晶潮館へと続く大橋には、昨日の倍以上の衛兵が立ち並んでいた。その瞳には、他国の特使に対する敬意はなく、ただ剥き出しの"猜疑心"だけが宿っている。
「ええ、わかっているわ……」
私は、一度だけ大きく息を吸った。
昨夜、アケルナルとリラから聞いた"世界の真実"。
"原初の姫"、時間のズレ、そして、どこかに潜む"脚本家"。"姫"として、私が考えなきゃいけない、たくさんのこと。
それらの情報の重みが、私の足取りを一段と重くさせていた。私たちが今向かっている場所は、平和を議論するための円卓ではない。誰かが書き記した"悲劇"の舞台そのものなのではないか。そんな疑念が、霧のように私を包み込む。
チラリと、背後のアルトを見る。
彼は昨日よりもさらに無口だった。右目の眼帯を気にするような仕草を時折見せるが、その背筋は鋼のように真っ直ぐに伸びている。
昨日見た時の、卑屈な気配はない。彼もまた、自分だけの夜を越えてここに立っているのだろう。
「……さあ、行きましょう、みんな」
私も、越えていかなければならない。ともすれば立ち止まってしまいそうな足に喝を入れて、馬車から降りる。
同時に、晶潮館の入口に佇む、一人の少女と目が合う。
白磁のような肌。勝ち気な瞳。夕暮れの中で輝いていた、あの煌めきは、今でこそナリを潜めているが、変わらず、その存在感は保っていた。
「あら、ちゃんと遅刻せずに来られたのね。昨日、あんなことがあった後だし、来ないかとも思ってたわ」
「……ミラク」
彼女は、入り口脇の壁に凭れるようにして、こちらに鋭い視線を送ってきていた。
脇に控えるバナビーの表情も、どこか固い。街の緊張感を、彼女らも感じ取っているようだった。
「昨日の件、随分と尾を引いているようだけど。そちらの"急進派"とやらは、まだ退いてないの?」
「このくらいで退いてくれたら、楽だったんだけどね」
ミラクが呆れたように肩をすくめる。
「残念ながら、まだフォーマルハウトのどこかに潜んでいると思われるわ。そして、今回の会議をぶち壊そうとしてくるはずよ」
「目的は、私たち――各国特使の命なんじゃないの?」
私は尋ねた。"急進派"の狙いが何なのかは、分かるうちに探っておいたほうがいい。
昨日、本来ならば襲われるのはリラだった。ならば、危ないのは私たち特使だと考えたほうがいい。
「そうね……そうね、その可能性が高いわ。私たちはともかく、ガーランドの皇太子と"小夜啼鳥"もいるもの。これを期に、まとめて排除したいんでしょうね」
「……させないわ。そんなこと」
私の言葉に、ミラクも強く頷いた。立場は違えど、志は同じだ。
そうして、私たちは晶潮館の会議場に足を踏み入れる。
瞬間、私はその空気の"重さ"に息を呑んだ。
天井から降り注ぐ陽光はどこか青白く、円卓を囲むエリダヌス連邦の首脳陣たちの顔は、氷の彫刻のように冷徹だった。
ガーランド皇太子リゲル、プレアデス聖教国のリラ。
二国の特使は既に席についていたが、場を支配しているのはエリダヌス連邦議長の、隠そうともしない"怒り"だった。
「……遅かったな、グラスベル特使、セプテニア特使。疾く、席に着きたまえ」
地の底から震わすような声。一体、何がどうして、そこまで彼が怒っているのか。わからないまま、私たちは着席する。
それを合図に、議長が口を開いた。
「――諸君。第二日の議事を始める前に、看過できぬ事態を報告せねばならん」
議長が卓を叩く。その音は、静まり返った館内に銃声のように響いた。
「昨夜、本会場近くの運河沿いにて、正体不明の刺客による爆破テロが発生した。幸いにもヴァルゴ王国の特使一行は無事であったが、周囲の家屋は損壊し、住民には死傷者が出ている」
議長の視線が、私を射抜く。
ここで、その話が出るか、とは思った。どうやら、今朝の妙な空気は、あれが原因だったらしい。
私は無言でそれを受け止める。昨夜のサダルスウドの襲撃は、恐らく、この会議を壊すために、帝国"急進派"が仕掛けた工作。それは、昨日時点でもう、わかっていたことだ。




