68話「不透明の議題」-前
石畳を叩く足音が、夜の静寂に不自然に響いていた。
ヴァルゴ王国宿舎、"碧き人魚の館"。つい数時間前まで優雅な社交の場であったはずのその場所は、私たちが逃げ込むように戻ってきたときには、外の世界の混乱を予感させるような、冷たく張り詰めた空気に包まれていた。
「……ひとまずは、全員無事か」
部屋の扉を閉めるなり、ギエナが低い声で言った。
彼は既にシャウルを連れて戻っており、私と、負傷したアルトの姿を見て、深く、重い溜息を吐き出した。
室内には、傷の手当てのために用意された清潔な布と、消毒用だろう強いアルコールの匂いが立ち込めている。私は、背中の火傷を処置されているアルトの傍らに座り、自分自身の震える指先を、もう片方の手で強く握りしめた。
「襲撃を受けたって話を聞いた時には、肝が冷えやしたぜ。やっぱり、プレアデスのあれは罠だった、ってことですかい?」
尋ねてくるギエナに、私はゆるゆると首を振る。
「恐らく、違うと思うわ。むしろ、リラは狙われていた、と考えるのが妥当ね」
「なるほど。でも、どうにか切り抜けた、と」
「……ええ。帝国の特使――ミラクに助けられたわ」
私は、その時の景色を思い起こしながら、そう口にした。
夕暮れを切り裂いて現れた"白雪姫"。
美しくも儚いその姿は、目に焼き付いて離れない。
「帝国、ねぇ」
鋭いハイエナの目が窓の外、暗い運河の先に浮かぶ帝国の装甲艦、"皇立迎賓館"を見据えた。
私たちは、先ほどの出来事――正確には、アケルナルの結界前で別れた後のことを、話すことにした。
もちろん、リラとアケルナルが話してくれたことについては、意図的に隠した。まだ、この世界の中で生きる彼らには、話すべきでないと思ったからだ。
ギエナは私の言葉を、黙って聞いていた。そして、咀嚼するように深く頷いてから、口を開く。
「襲ってきた刺客――サダルスウドと名乗った少年。そして、それを撃退したミラクの発言。いっぺん、整理させてもらいやすぜ」
彼は、指を一本立てた。
「帝国の中は、真っ二つだ。ミラク嬢や、あのバナビーとかいう爺さんは、王国や連邦との融和を望む"穏健派"。だが、お嬢様を襲った刺客を送り込んだのは……その裏で実権を握ろうとしている"急進派"。……ってことで、いいんですかねえ?」
「工作員、って彼女は言っていたわ。サミットを壊すこと。あるいは、各国の特使を消すことで、力による再編を目論んでいる……」
そう考えると、議場でリゲルやリラに必死に食らいつこうとしていた、ミラクの姿勢にも、理解できるものがある。
彼女もまた、私と同じ“姫”であり、そして自らの背負う物語の結末に抗おうとしているのだ。彼女が私たちを助けたのは、単なる気まぐれではなく、帝国の暴走を止めるという、彼女なりの闘いだったのだろう。
そこで、ギエナが私を振り返る。
「厄介なのは、敵は“姫”だけじゃねえってこった。……気になるのは、その少年――サダルスウド、って名乗ってたんでしたっけ?」
「……ええ、"姫"の力に近い、魔法の力を行使していたわ」
私は、脳内に残っているサダルスウドの魔法を反芻した。掌に浮かぶ、不気味に脈動する白い球体。
それについて、彼は興味深いことを口にしていた。
「彼は、魔法を"種"として分けてもらったと言っていたわ。本来なら、"姫"にしか許されないはずの、世界の理を歪める力。それを、一介の工作員が振るっていた」
「そんなことが、可能なんですかい? 力を他人に分けるなんて……」
ギエナが、訝しげに首を傾げる。
私は、ある一つの"物語"の記憶を、現実の脅威へと当てはめていった。
「おそらく、彼の力の核は、私が知る、ある古い物語に基づいている。……『ハンプティ・ダンプティ』。『鏡の国のアリス』に登場する、塀から落ちたら二度と元には戻せない、卵の怪物にまつわる童謡よ」
卵状の爆弾。触れたものを粉砕する斥力。そして、"元には戻らない"という残酷な宣言。
童話が"聖典"であり、私たち"姫"の設計図である可能性があるのなら。あの能力は間違いなく『鏡の国のアリス』の一節を、物理的な暴力へと変換したものだ。
「バナビーもそうだったわ。魔法の力を帯びた盾を使っていた。彼は確か、七つに分離可能な、鏡の盾を使ってたわね」
「……俺たちは『白雪姫』なんて童話は知りませんが、"鏡を砕いた白雪姫"、その配下が鏡にまつわる魔法を使っていたのなら、もう、確定でしょうね」
私は、強く頷いた。
『白雪姫』の悲劇は、継母を唆した魔法の鏡から始まる。きっと、彼女はその鏡を"砕き"、悲劇の始まりを否定しようとした存在なのだろう。
最も――"姫"である以上、"物語"からは逃げられないのだが。それはともかく、彼女が鏡にまつわる魔法を使っていたことにも繋がる話だ。
加えて、"七つ"に分離可能。ミラクが出していた分身も七人だった。これは"七人の小人"に関係しているのだろう。こうなれば、もう確定だ。
「おそらく、特定の条件下で配下に"姫"の力を分け与え、限定的な魔法を行使させる手段が、帝国には存在するのよ」
その言葉を聞いた瞬間。
処置を終え、椅子に深く腰掛けていたアルトが、何かを言いかけるように口を開いた。
「……あの、ノクティア様。私は……」
だが、彼はすぐにその言葉を飲み込み、視線を床へと落とした。
何か気付いたことがあったのかもしれない。けれど、アルトは右目にそっと手を触れ、その続きを、ここで口にすることはなかった。きっと、確信が無かったからだろう。




