67話「鏡を砕いた白雪姫」
「――おやおや。幼子の火遊びにしては、少々度が過ぎますな」
不意に、私たちの視界を遮ったのは、"七つの鏡面"だった。
宙に浮遊する七枚の盾。それらは、王宮の宝物庫から持ち出された儀礼用具のような、精緻な装飾が施された鏡だ。サダルスウドが放った斥力の衝撃波は、その鏡面に触れた瞬間、波紋を立てて吸い込まれ、霧が晴れるように完全に無効化された。
「……えっ? 僕の"卵"が……消えた?」
驚愕に目を見開くサダルスウドの視線の先。路地裏の入り口に、一人の老紳士が静かに佇んでいた。
「……っ、あなた、ミラと一緒にいた……!」
「ふむ、覚えていていただけて光栄ですぞ、グラスベル王国特使」
フォルナクス帝国の従者、バナビー。彼は優雅に一礼し、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。彼の手元には、先ほどまで七つに分かれていた鏡が磁石のように引き寄せられ、重なり合い、一つの形を成していた。
そう、まるで――主君を守るための、無骨な盾のように。
「……あなたも、それ、魔力を……一体、どうやって」
「教えて差し上げたいのは山々ですが、今は火急ゆえ。ひとまずはここを凌ぎましょう」
バナビーは空を見上げた。夕焼けの端から夜が急速に伸びてくる、そんな二藍の空を。
「今です、ミラ様!」
その枯れ木のような身体からは想像もつかない大声量に呼応するかの如く、沈みかけた残光を背負い、一影が天空から舞い降りた。
「――悪いわね。私の目の前で、もう、無駄な命は奪わせないわよ!」
燃えるような夕焼け空を背景に、少女が叫ぶ。
ミラ――ミラク・シュピーゲル=セプテニア。
彼女は重力に逆らうように滞空しながら、その姿を劇的に変容させていった。
豪華な礼装は光の粒子となって霧散し、代わりに現れたのは、夜の闇よりも深く、それでいて雪のように清廉な白を湛えた、童話の中の“姫”そのもののドレス。
「だって、そのために私は砕いたんだもの……! みんなが、幸せになるために――!」
彼女が手に握りしめていたのは、一本の鋭い、硝子の欠片。
それは彼女自身の指先を傷つけ、一筋の紅い鮮血を滴らせている。その血が硝子に触れた瞬間、七枚の鏡の盾が、まるで彼女の魂の叫びに共鳴するように激しく震動した。
◆◇◆
白雪姫は、魔法の鏡を砕きました。
それが諸悪の根源だと知っていたからです。
けれど、思いもしませんでした。
その鏡が、別の誰かを支えていたなんて、そんなことは知る由もなかったのです。
彼女はその手で、誰かの幸せも砕いてしまいました――。
◆◇◆
石畳に着地した彼女の全身から、圧倒的な冷気と威圧感が立ち昇る。
白磁のような肌、揺れるプラチナブロンド。その美しさは、もはや人間という枠を超え、完成された"物語"の化身へと昇華されていた。
「――私は、"鏡を砕いた白雪姫"!」
ミラクは、手にした鏡の欠片をサダルスウドへと突きつけた。
「……へっ! 君、見たことあるぞぉ! 確か、穏健派の"姫"だったっけぇ?」
「そういうあなたは、急進派の使い走りか何かみたいね。力を受け取る"姫"が下劣だと、能力まで下品になるのね?」
煽るように、ミラクは語尾を上げた。誰が見ても安い挑発だったが――効果は覿面だった。サダルスウドの顔から無邪気な笑みが消え、獣のような凶相が浮かび上がる。
「……っ! 君も、君の力も、全部壊れちゃえよ!!」
サダルスウドが両手を翳す。周囲の空気が悲鳴を上げ、掌の上に先ほどとは比較にならないほど高密度の魔力が凝縮された。
三層に重なる巨大な"卵"が、膨張と収縮を繰り返しながら発射される。
直撃すれば路地裏ごと消滅しかねない、暴力的なまでの斥力弾。私は警告の声を発しようとしたが、それよりも、ずっと早く。
「――馬鹿ね。全部吹き飛ばすなんて、三流のすることよ」
ミラクが指先で鏡の欠片を回すと、彼女の背後に浮かぶ七枚の鏡から、それぞれ一陣の風が吹き抜けた。
文字通り、鏡の中から"異界の気配"が流れ出してきたのだ。
どろりと溢れ出した七つの魔力の断片が、瞬時に実体を成していく。
「……っ! 魔力が、七つ……!」
「逃がさないわよ。――"七人の虚人"!」
鏡面から飛び出したのは、ミラクと同じ姿をした、七体の分身だった。
実体を持たない残像ではない。一つ一つがミラクの魔力を等分に分け持ち、異なる武器――巨大な斧、鋭い短剣、あるいは鎖を携えた、自律する殺意の塊だ。
サダルスウドが放った巨大な"卵"に対し、一番目の分身が真っ向から斧を振り下ろした。
爆発が起きるはずの斥力弾が、斧が触れた一点から"ヒビ"が入るように砕け散る。
さらに二番目、三番目の分身が、弾けた斥力の余波を鏡の盾で反射し、そのままサダルスウドへの反撃へと変換する。
「な、なに……!? 僕の力が、跳ね返って……っ!」
「あんたの"壊すだけ"の力なんて、私の砕かれた破片に比べれば、ただの花火よ」
ミラク本人は動かない。
四番目と五番目の分身が、影を滑るような速度でサダルスウドの両脇を駆け抜け、逃げ道を塞ぐように鎖を張り巡らせる。
「い、いやだ……来ないでよ! ぐちゃぐちゃにしてやる、みんな、ぐちゃぐちゃに……!」
焦燥に駆られたサダルスウドが、自身の全魔力を絞り出し、全方位に向けて無数の小さな卵を撒き散らした。全方位爆撃。しかし、それすらもミラクの計算の内だった。
「遅いわ」
残りの六番目、七番目の分身が、空中で鏡面を展開する。
無数の爆発はすべて鏡の中に吸い込まれ、次の瞬間、サダルスウドの頭上から"彼自身の魔力"となって降り注いだ。
「――が、ああああぁっ!!」
自らの斥力に叩き伏せられ、石畳を転がるサダルスウド。
その身体を、七人の分身が容赦なく包囲し、硝子の刃を突きつける。腕を、足を、魔力の噴出孔を。文字通り指一本動かせないほど完璧に、彼を制圧した。
「い、いた……痛いよ! 離してよぉ!!」
「泣いても無駄よ。……あんた、自分が何をしたか分かってるの?」
本物のミラクが、一歩ずつサダルスウドに詰め寄る。
その瞳には、かつてレストランで見せた我儘な少女の影はない。他者の身体を奪ってまで生きながらえた罪悪感と、それを購うために“完璧な結末”をぶち壊した、凄絶なまでの覚悟が宿っていた。
「鏡に映る現実に絶望したくないから、私は鏡を砕いたの。……あんたのその歪な"種"も、ここで一緒に粉々にしてあげるわ!」
ミラクが鏡の欠片を振りかざした。
七人の分身が一斉に鏡面へと還り、その際に生じた凄まじい魔力の収束衝撃が、サダルスウドを運河へと吹き飛ばした。
「あ、あうぅ……っ。……覚えてろよ、絶対にお掃除してやるんだから!!」
サダルスウドは涙目で叫びながら、運河の暗い水底へと消えていった。
静寂が、戻る。
ミラクは大きく肩で息をしながら、変身を解いて膝をついた。
私は、アルトを支えたまま、呆然と彼女の背中を見つめるしかなかった。
「……ミラク。あなた、"姫"だったのね」
「ふん。ノクティア。議場での借りは、返したわよ」
彼女は振り返らずに、ただそう言った。
強がり、傲慢に見える彼女も、それなりの地獄を背負ってここにいる。その細い背中には、悲壮な決意が満ちていた。
そのまま、"白雪姫"はこの場を去っていく。気高く、強く。そして、"姫"としての矜持を感じさせる足取りで。
「……後になって騒がれるのも嫌だから、一つ教えておいてあげるわ」
そんな足が、不意に止まった。迷うように膝が震えたのは、きっと見間違いではないだろう。
だから、私は聞かなければいけなかった。彼女が自分の気位に泥をつけてでも、私たちに伝えようとしてくれていた、その一言を。
「――あれは、帝国の工作員よ。急進派の部隊が既に、この街に潜り込んでいるわ」
戦いは幕を開けていた。
私が認識する、ずっと、ずっと前から。




