5話「シルマの市」
屋敷を出て、馬車に揺られること数十分。
石畳を車輪が叩く規則的な振動が、私の沈んだ気分を少しずつ現実へと引き戻していく。
「お嬢様、見てください! もう城壁が見えてきましたよ!」
対面の座席から、弾むような声が飛んでくる。
窓の外を指差してはしゃぐスピカの明るい声。それはまるで、さっきまでの私の重苦しい空気を吹き飛ばすかのようだ。
私は頬杖をついたまま、彼女の指差す先へと視線を向けた。
視界に飛び込んできたのは、空を切り取るようにそびえ立つ、巨大な灰色の壁だった。
城塞都市シルマ。
先ほど見せてもらった地図には、確かそう記してあった。私たちが暮らしている屋敷から少し行ったところにある、グラスベル領でも最大規模の街だ。
ヴァルゴ王国の東端、ドレスの裾に位置するこの街は、まさに、帝国と接する最前線。
背後には国境の山脈が迫り、円形に築かれた重厚な石壁が、街全体をゆりかごのように――あるいは檻のように囲い込んでいる。
「……随分と立派な壁ね」
「でしょう? この壁がある限り、どんな敵も入ってこれません。シルマは国境に一番近いのに、王国でも一番安全な場所だって、街のみんなも自慢してるんですよ」
誇らしげに胸を張るスピカに、私は曖昧な愛想笑いを返すことしかできなかった。
安全、か。
確かに、中世レベルの戦争なら、この壁は鉄壁だろう。
けれど、父の話を思い出す。敵は"炉"の名を持つ工業国家だ。
蒸気機関、大砲、そして"姫"。
それらの脅威の前では、この石壁など積み木同然かもしれない。
壁の高さに安心しきって、空――砲弾の軌道を見上げていない。典型的な"平和ボケ"が、この街の空気には漂っている気がした。
「ほら、お嬢様! 市場の入り口ですよ! 降りる準備をしましょう!」
思考の沼に沈みかける私を、スピカの手が引っぱり上げる。
馬車が広場の近くで停車すると、扉が開いた瞬間に、どっと喧騒が流れ込んできた。
スパイスと焼き菓子の甘い匂い。商人たちの威勢のいい掛け声。大道芸人に歓声を上げる子供たち。
そこにあるのは、戦争の影など微塵も感じさせない、眩しいほどの日常だった。
「わあ……! すごい人ですね!」
スピカが目を輝かせて、私の手を引く。
その温もりに、ふと、胸の奥が締め付けられた。
――この日常も、彼女の笑顔も。
放っておけば、遠からず瓦礫の下に埋もれてしまう。
あの日の私のように。
「……なんて、考えてたら勿体無いか」
私はかぶりを振って、ネガティブな想像を振り払う。
今日は気分転換に来たのだ。守りたいものが何なのか、それを目に焼き付けるために。
なら、私も精一杯、この"仮初めの平和"を楽しむべきだ。
「そうね。……ええと、スピカのおすすめはどこ?」
私が努めて明るく尋ねると、彼女はパッと花が咲くように笑った。
「はい! まずは東通りの雑貨屋さんに行きましょう! 可愛いリボンの新作が入ったって噂なんです!」
私たちは人混みの中へと歩き出す。
慣れた調子で、ズンズンと先を行くスピカに、どうにかついていくのでやっとだった。普段、運動靴か通学用のローファーしか履かない私に、踵の高いハイヒールは、どうも合わない。
それでも、靴擦れや痛みを感じないのは、靴そのものが上質だからか、それとも、この体が履き慣れているからだろうか。
「お嬢様、覚えてらっしゃいますか? シルマの市は、王国でも随一の賑やかさなんですよ!」
歌うように、スピカが言う。
確かに、この盛り上がりは凄まじいものがある。私のいた世界に例えるのなら、週末の繁華街――否、あそこまで毒々しい明るさではなく、どこか素朴で、カラッとした喧騒だ。
「ええ、確かに、これはすごいわね。うっかりすると、はぐれちゃいそう」
「あはは、気を付けてくださいよ。人が多い分、トラブルも少なくないんです。折角お目覚めになられたのに、変なことに巻き込まれたら、勿体ないですよ!」
それもそうか、と私は視線を巡らせる。
立ち並ぶ露店。行き交う人たち、皆が楽しそうに笑顔を浮かべ、買い物や食事を楽しんでいる。
「……戦火が迫っているなんて、嘘みたいね。帝国が攻めてこようとしてるなんて、誰も知らないみたい」
「ふふ、そうですね。でも、そのくらい平和でいいと思いますよ。あんまりピリピリしてるのは、私も好きじゃないですし――」
そんな風に結んで、スピカの歩調が早まる。もう、少しは気を遣って、歩くペースを落としてくれてもいいのに。
そろそろ、悪態の一つでも吐こうか、なんて、下らないことを考え始めた、その瞬間だった。
「――待って、スピカ。止まって頂戴」
鋭く、先を行く彼女を呼び止める。
まるで、コミカルなアニメのように、ピタリと動きを止めたスピカは、前方につんのめるようにして傾いて、あわや転倒、というところで、どうにか踏み留まった。
「な、なんですか、お嬢様! もしかして、歩くの早すぎましたか?」
「それはそうね、でも、違うわ。あれ――」
私は、先ほど目に入った"それ"を指差した。
そこにいたのは、一人の女性だった。頭に白い頭巾のようなものを被り、買い物の途中なのだろうか、食材が投げ込まれたバスケットを提げている。
しかし、気になったのはそこではない。彼女は忙しなく、辺りをキョロキョロと見回していたのだ。
その表情には、どこか鬼気迫るものがあった。本当に、大切なものを失くしてしまった時の顔。それが、私には何かと被って見えた――。
「ありゃ、本当ですね。お財布でも落としちゃったんでしょうか、ちょっと――」
スピカが言い終わるよりも早く、私は女性に近付いていた。私の接近に気が付いたのか、女性の視線が、こちらに向けられる。
「――ごめんなさい、急に。何か、困りごとですか?」




