66話「割れた卵は戻らない」
――衝撃は、思考よりも先に肉体を叩き伏せた。
鼓膜を震わせる轟音。直後、熱を帯びた爆風が運河沿いの石畳を舐めるように走り、私の平衡感覚を無慈悲に奪い去る。
視界が白銀に染まり、喉の奥に焦げた大気と石細工の粉塵が張り付く。
「……っ、ノクティア様!!」
激しい耳鳴りの中、誰かが私の名を叫んだ。
衝撃に抗えず地面に投げ出されそうになった私の身体を、強い力が抱きしめるようにして引き寄せる。
アルトだ。彼は咄嗟に自分の身を盾にして、私を抱えたまま、爆心から遠ざけるようにして路地裏の壁際へと、飛び込んだ。
私たちは、揃って地面を転がる。爆風を避けたとはいえ、体にははっきりとした衝撃が残っていた。
「アル、ト……大丈夫、なの……?」
掠れた声で問いかける。アルトは私の肩を抱いたまま、苦悶に満ちた表情で背後を振り返った。彼の礼装の背中側が、爆風に煽られて無惨に焦げているのが見える。
「私は……平気です。それより、今の爆発……」
立ち上る黒煙。粉砕された街灯の残骸。
美しかったフォーマルハウトの夕景が、たった数秒で地獄の片鱗へと塗り替えられていた。
その黒煙の向こう側、壊れた欄干の上に腰を下ろしている"人影"が見えた。
「あーあ。やっぱり、仕留め損なっちゃったかぁ」
煙を割り、鈴の鳴るような声が響く。
そこにいたのは、一人の少年だった。
年は私たちよりもさらに幼く見える。艶やかな黒髪に、どこか虚無を湛えた瞳。彼はまるで、公園の遊具にでも腰掛けているような気楽さで、凄惨な現場を見下ろしていた。
「……君は、誰だ」
アルトが私を庇うように立ち上がり、腰の剣を引き抜く。
少年は、首をコトンと傾けた。
「僕? 僕はサダルスウドっていうんだ。……ねえ、君たちが"最後の一人"だよね? あのキラキラした建物から出てきた、最後の人」
最後の一人。
その言葉に、背筋が凍りつく。本来、最後に出てくるはずだったのは、私ではなかったはずだ。
プレアデスのリラ――彼女が私を引き留めたことで、順番が入れ替わってしまった。
つまり、こいつの標的は、リラだったというのだろうか?
「……生憎だけど、人違いじゃないかしら。私たち、あなたのことなんて知らないわ」
「僕だって知らないよ。でも、"最後に出てきた奴を殺せ"って言われてるんだ。ごめんね、君らが悪いんだよ、そこのキラキラから、"最後に出てきた"んだからぁ!」
少年――サダルスウドは、微笑みながらその右手を掲げた。
その瞬間、私は己の目を疑った。
少年の掌の上に、濃密な魔力が収束していく。
それは、兵士や魔術師が使うような練り上げられた魔力ではない。もっと根源的で、世界の理を直接歪めるような――"姫"にしか許されないはずの、純粋な魔力の輝き。
「……魔法? でも、どうして……!」
「魔法? ……ああ、これのこと? 特別な人から、種を分けてもらったのさ! ほら……いくよぉ!」
サダルスウドが指を弾く。
空間に、いくつもの白く透き通った"卵"が生成された。
それらは物理法則を無視して宙を舞い、私たちの頭上から降り注ぐ。
「ノクティア様、伏せて!!」
アルトの叫びと同時に、卵が弾けた。
爆発ではない。それは、空間そのものを内側から食い破るような、圧倒的な"斥力"の塊だった。衝撃波が路地裏の壁を砕き、私の身体を地面へと押しつける。
「――っ、この、いつまでも……!」
反撃のため、私は震える指先を空に向ける。
だが、私の指先には、一筋の魔力も宿らない。
空を見上げる。日は沈みかけているが、まだ完全に落ちきってはいない。
西の空に残るわずかな残光が、私に宿る"シンデレラ"の力を、決定的に封じ込めていた。
「どうしたの? たすけてーって、手を伸ばしても、そっちにはだぁれもいないよ!」
サダルスウドが、無邪気に笑う。
彼は再び掌の上に卵を生成した。今度は先ほどよりも大きく、より不気味に脈動している。
「――じゃあね。落ちて、壊れて、卵は元に、戻らないのさ!」
サダルスウドが、無邪気な残酷さを込めてその手を振り下ろした。
脈動する巨大な魔力の塊――"卵"が、空気を悲鳴のように震わせながら、私たちの逃げ場を塞ぐように迫る。
指一本動かせない。夕闇が私の魔力を奪い、重圧が私の足を石畳に縫い付けていた。
「ノクティア様っ!!」
その時だった。
私の前に立つアルトの、眼帯に覆われていたはずの右目が、闇を切り裂くような白銀の光を放った。
硝子が砕けるような、鋭く、澄んだ音。
「……っ、見えた!」
アルトが私の腰を引き寄せ、地面を蹴る。
それは、人間の反応速度を遥かに超越した、電光石火の転身だった。
直後、私たちがいた場所を巨大な斥力が直撃する。凄まじい衝撃波が石畳を抉り、重厚な壁を紙細工のように粉砕した。あとコンマ一秒遅ければ、私たちは今頃、壁の一部になっていただろう。
「……え? 避けたの? 僕の攻撃を?」
サダルスウドの声に、初めて戸惑いが混じる。
しかし、その驚愕よりも早く、アルトの身体から力が抜けた。
「ぁ……がっ……」
眼帯の奥から漏れていた白銀の光が、砂嵐のように霧散する。
アルトは膝を突き、激しく咳き込んだ。右目から一筋の血が流れ落ち、彼の頬を汚す。
「アルト! しっかりして!」
「すみ……ません……。身体が、言うことを……。今の、は、一体……」
彼は剣を支えに立ち上がろうとするが、その指先は小刻みに震え、もはや握る力すら残っていないようだった。
一瞬の覚醒と、その代償としての極限の疲弊。
それを見たサダルスウドが、不機嫌そうに頬を膨らませた。
「ずるいよ。今のはずるだ。……いいよ、避けるのが得意なら、避けられないくらいにたくさん作ればいいんだよね?」
少年の周囲に、先ほどとは比較にならない数の"卵"が浮かび上がる。
十、二十――いや、数えきれないほどの透き通った球体が、路地裏の空間を埋め尽くしていく。
「今度こそ、おしまい。……さようなら」
サダルスウドの指が、死を告げる合図を送ろうとした、その瞬間――。
――"何か"が、私たちの間に割り込んだ。




