65話「"原初の姫"」
アケルナルの問いかけは、波紋のように私の思考の深層へ沈み込んでいった。
この世界の仕組み。脚本家の存在。そして、私たちの存在そのものが誰かの書き込みに過ぎないという、残酷なまでの仮説。
「……ねえ、ノクティア。もう一つ、聞いてもいい?」
アケルナルは、バスタブの縁に置いた白い指先で、ゆらゆらと揺れる水面をなぞった。
「あなた、おかしいと思わなかった? この世界に来てから……一度でも、"言葉が通じない"とか、"文字が読めない"と、不便に感じたことはあったかしら」
「…………っ」
指摘されるまで、私はその異常さに、疑問の欠片すら抱いていなかった。
王都に降り立った瞬間から、人々の声は私の知る日本語と何ら遜色なく脳に響き、街の看板も、古びた書物の記述も、ごく自然に意味を成して私の瞳に映っていた。
「それは……転移者の特典、とか。そういうものではないの?」
「特典。ふふ、そう呼べば聞こえはいいわね」
アケルナルは寂しげに目を伏せた。
「けれど、それは自然な現象じゃないわ。……この世界の言葉と、私たちの世界の言葉は、本来なら全く異なるルーツを持つはず。それを無理やり、強引に認識のレベルで"翻訳"して、壁を取り払ってしまった者がいる。……おそらく、それは"原初の姫"の魔法によるものよ」
「原初の……姫……」
「この世界に最初に転移してきた、最初の"迷い子"。彼女がどのような物語を演じ、どのような絶望の果てにその魔法を編み出したのか……詳しいことは、私やリラにもわからない」
傍らでリラ・マイアが、硝子の魚を指先で弾き、音もなく泳がせた。彼女の空虚な瞳は、かつて存在したはずの、その"最初の隣人"の残影を追っているようだった。
「でも、その人は、まだ生きている。……どこかでねぇ」
リラの囁きは、確信めいた不気味さを孕んでいた。
「もし、あなたが“姫”と呼ばれる存在について、あるいはこの世界の残酷な脚本についてもっと深く知りたいのなら……彼女を探すといいわ。この世界のどこかに潜み、今も物語の連なりを見つめ続けている、最古の観測者を」
謎は解けるどころか、さらに深い一雫となって私の胸に落ちた。
原初の姫。世界の認識を塗り替え、脚本を書き始めた者。
私が次に目指すべき道標が、暗闇の中にぼんやりと示されたような気がした。
「……行きなよ、ノクティア。明日の会議、楽しみにしてるからぁ」
リラが気だるげに手を振った。
アケルナルは再びバスタブの中に沈み、藍色の尾鰭を優雅に揺らした。彼女の背中は、もはや何も語らない。ただ、世界から切り離された静謐だけがそこにあった。
私は、重い足取りで真珠貝の扉を抜けた。
晶潮館の廊下は、先ほどまでの幻想的な空気とは一転して、現実の、どこか冷淡な気配に満ちている。
結界の外に出ると、そこには意外な光景が待っていた。
「……あ、ノクティア様。終わりましたか?」
壁に背を預け、退屈そうに床のタイルを数えていたのは、アルト一人だった。
「……アルト? ギエナとシャウルはどうしたの?」
「ああ、あの……シャウルの奴が、『腹が減って死にそうっす、もう我慢の限界っす』って騒ぎ出しまして。ギエナ隊長が呆れながら、『おい、特使様の邪魔になるから連れていくぞ』って。……何か、シャウルに話もあるみたいでしたし」
アルトが困ったように笑う。いかにもあの二人らしい、と言えばらしい。
けれど、今の私には、その賑やかな不在が、先ほど聞いた"世界の真実"の重さを和らげる緩衝材のように感じられた。
「そっちの話はどうだったんですか? プレアデスの王女と、……その、連邦の最強の姫と、何を」
「……そうね。明日のための、ちょっとした根回しのようなものよ」
私は、嘘を吐いた。
彼女たちから聞いた、原初の漂流者の話も、聖典にまつわる話も、まだ誰にも話すべきではない気がしたから。
アルトは私の不自然な反応に気づいたようだったが、何も追及することなく、「そうですか」と短く頷いて私の横に並んだ。
「帰りましょう。……少し、潮風を浴びたいわ」
「はい。お付き合いします」
そうして歩けば、潮風が私たちを包み込む。
夜のフォーマルハウト。
晶潮館を出て、運河沿いを歩き出すと、夜気が火照った頬を冷ましてくれた。
文字が読めること。言葉が通じること。
それが魔法による矯正だったのだとしたら、私の見ているこの景色も、私の聞いているアルトの声も、すべては“原初の姫”が用意したフィルター越しのものである可能性がある。
ほんの僅かに、世界の真実に触れた。
けれど、私は大切なことを問い質すのを忘れていたことに気づく。
(……どうして彼女たちは、あんな話を自分に教えてくれたのか)
私を"人魚姫"と引き会わせたリラ。
寂しげな瞳で笑ったアケルナル。
彼女たちの親切は、同じ境遇の者への情けだったのか。あるいは、自分たちが抗えなかった"脚本"を、私という新しい登場人物に壊してほしいという、祈りだったのか。
「……ノクティアさん?」
隣を歩くアルトが、不思議そうに私を覗き込む。
街灯の明かりに照らされた彼の顔は、この狂った物語の中でも、変わらずに真実味を持ってそこにいた。
「何でもないわ。……明日は、いい日になるといいわね」
私は、自分に言い聞かせるようにそう言った――。
――その直後だった。
それは、軽い感覚だった。足元に何か、転がってきたものを、ほんの少しだけ蹴飛ばしてしまうような、そんな感覚。
小さく、真っ白な卵状の物体。
それが視界に入ると同時。
「――あーあ、割れちゃった」
少年を思わせる、無邪気で、かつ底知れない狂気を孕んだ声が耳を打った。
瞬間。
私の視界は、すべてを飲み込む凄まじい爆風と、白銀の閃光に包まれた。




