64話「All the world's a stage」
アケルナルの金色の瞳が、水槽を透過する青い光を反射して、この世のものとは思えない深みを湛えている。
バスタブから溢れ、床を濡らす水の音だけが、この静寂が現実であることを辛うじて繋ぎ止めていた。
「ノクティア、あなたは“姫”という存在を、単に異世界から招かれた"特別な力を持つ娘"だと思っているかしら?」
アケルナルが、濡れた指先で水面に小さな輪を描いた。
私はその問いに、言葉を返すことができなかった。
レグルス砦で見たアンタレスの脅威。王都で聞いた王の話。そして、都を絡め取る"姫"の存在。
"姫"。そういえば、私はそれについて深く考えたことがなかった。
認識として言うのなら――彼女の言う通りだ。圧倒的な力を持つ少女の魂、私も含めた、魔法に愛された者――。
「違うわ。“姫”の本質は、そこにはない。……私たちの核心は、下敷きにされた"物語"にあるのよ」
彼女は、自らの藍色の尾鰭をいたましげに撫でた。
「例えば、私。私はね、泡になって消える道を選ばなかった人魚姫。――王子を喰らい、愛を自ら捨てたことで狂ってしまった、"喰らってしまった人魚姫"。それが、この世界が私に与えた役柄なの」
愛する人を喰らい、狂った人魚。
そのあまりに凄惨で、ひねくれた"物語"に、私は背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。アンタレスも、アルフェッカも、そして……私自身も。あらかじめ決められた"悲劇"のレールの上を走らされているというのか。
「うふふ……。アケルの言う通りだよぉ、たぶん"姫降ろしの儀"には、私たちが思うよりも悪辣な意図が隠されてる」
リラ・マイアが、硝子の彫刻にそっと触れながら、歌うように言葉を継いだ。
「どうして、あなたがそう言い切れるの?」
「そもそも、“姫降ろしの儀”を最初に成功させたのはうちら……プレアデスだからだよぉ」
何でもないことのように、彼女は口にする。
「だからうちらは、他の国よりも少しだけ、"姫"に詳しい。ねえ、"姫降ろしの儀"がどうやって行われるか知ってる?」
少しだけ考えた。しかし、分かるわけがない。
私がこの世界に来た時には、既に終わっていた儀式だ。それに、彼女の部屋にも、そういった痕跡は残っていなかった。
「五大大国――ヴァルゴ、エリダヌス、プレアデス、ガーランド、そしてフォルナクス。かつての古の時代、それぞれの国に残された、秘匿されている"聖典"を使うんだよぉ」
「聖典……?」
「そう。あなたや私が知っている、童話の絵本さぁ」
リラは私の困惑を慈しむように、首を傾けて微笑んだ。
この世界のどこにも存在しないはずの"童話"が、聖典として国家の最深部に祀られている……?
彼女の言葉が全て正しいとするのなら、それは、明らかにおかしい。どうして、そんなものがここにある……?
「でも、それに触れられるのは一部の王族や高位の神官だけ。いつの間にかこの世界では、童話は忘れ去られ、ただの禁忌の術式になってしまった」
リラの言葉に、私は胃の底が冷えるのを感じた。
「……じゃあ、この世界の童話は、意図的に葬られたってこと……?」
「ま、そうなるねぇ。とはいえ、どうして単なる童話が、そんな力を持ったのかまではハテナマークだけどさぁ」
一体、誰がそんなことを考えたのか。
誰が、童話という"脚本"を聖典に据え、この世界のシステムを構築したのか。
「……アケルナルさん。あなたは、知っているの? この歪な仕組みを誰が作ったのか」
私の震える問いに、人魚姫は悲しげな微笑を深くした。
「答えは一つではないけれど、確かなことが一つあるわ。……この世界の成り立ちには、間違いなく、私たちと同じ"現代人"が深く関わっている」
アケルナルはバスタブの縁に身を乗り出し、私の顔をじっと見つめた。
「ねえ、ノクティア。あなたがここに来た時、西暦は何年だった?」
「……2025年でした」
「そう。私がここに来た時は、2022年だったわ。……けれど、おかしなことに気づかない? 私はこの世界ですでに、100年以上の月日を過ごしているのよ」
「……100、年……?」
私は絶句した。
2022年から2025年。私たちの世界ではわずか3年の差。なのに、この世界では一世紀以上の時が流れている。
「この世界と、私たちが元いた世界は、時間の流れが致命的にズレているの。……つまりね、私たちよりもずっと前、もしかしたら何百年も、何千年も前にこの世界に来た"誰か"がいるはずなのよ」
アケルナルの声が、水の音に混じって冷たく響く。
「その"先駆者"が、自分の知る物語の概念をこの世界に持ち込み、魔法の源泉として定着させた。……この世界は、その誰かが書き残した巨大な脚本に従って動いている、精巧なジオラマのようなものなんじゃないかと思うの」
アケルナルの告白は、私の存在意義そのものを揺るがすものだった。
私が必死に抗い、守ろうとしているこの人生すらも、数百年前に迷い込んだ誰かが書き記した、悪趣味な創作の一部として動いているのか。
人魚姫の声には、ひどく悲しい、そして諦念に近い響きがあった。
「ねえ、ノクティア。……あなたは考えたことがある?」
アケルナルはバスタブから零れ落ち、床を浸していく水を見つめながら、最後にこう問いかけた。
「……もし、この世界のすべてが誰かの書き込みだとしたら。私たちは、どうやって自分の意志で結末を書き換えればいいと思う?」
その問いに答える術を、私は持っていなかった。
晶潮館の深淵で、水の色はより一層深く、暗く、私たちを呑み込もうとしていた。




