63話「歌い、微笑む人魚姫」
「――ねえ、こっちだよ。足元、気をつけてねぇ」
リラ・マイアの足取りは、羽毛が宙を舞うように軽やかだった。
晶潮館の喧騒は、背後の重厚な扉が閉まった瞬間に、遠い世界の出来事のように消え去った。案内されたのは、議場のさらに奥。連邦の官僚たちですら立ち入りを許されないはずの、秘匿された最深部だった。
通路の壁面はすべて透過性の高い硝子で構成され、その向こう側には、重力から解き放たれた水が美しい彫刻となって宙に浮いていた。魚の形、花の形、あるいは複雑な幾何学模様。それらが差し込む、淡い日差しを浴びて、呼吸するように明滅している。
「……なんか、妙っすねえ」
最初に、その違和感を言葉に変えたのは、シャウルだった。
「……あのリラって女、プレアデスの特使なんすよね? なんでここ、あんな自分ちみたいに歩いていけるんすか?」
それは、私も気になっていた。
他国の特使であるはずのリラが、我が物顔で最深部を歩いているというのに、彼らは制止するどころか、石像のように直立不動のまま、彼女が通り過ぎるのを黙認している。
――あるいは、その答えも、この先でわかるのかもしれないが。
「着いたぁ、ここだよぉ」
私がシャウルに言葉を返すよりも早く、リラは足を止める。
不思議な場所だった。まるで、シャボン玉の膜のような透明な壁が、行く手を阻んでいる。
結界――そんな言葉が、頭を過ぎる。
「リラ様、ようこそお越しになりました。グラスベル特使も、お話は伺っています」
結界の入口に立つ人魚兵が、槍を交差させて私たちを止める。彼女らの目には、相変わらず機械的な色しか見えない。
「通行券をお持ちなのは、リラ様と、グラスベル特使のみです。他の方は、どうかこちらでお待ちください」
その言葉に、アルトが心配そうな視線を送ってくるのがわかった。相手は、得体の知れない"小夜啼鳥"。これが罠である可能性も高いだろう。
「……大丈夫、行ってくるわ。みんな、ここで待ってて」
ニヤリと、リラが口元を歪める気配がした。
そうして、私は結界を潜り、更に歩き続ける。シャボンの内側には、まるで無菌室めいた潔癖さと、清浄さが満ちていた。
「私、ここは好きなんだよねぇ」
リラが、歌うように言う。
「この街、あっちもこっちも汚い匂いがするけど、ここは別。たぶん、物語の中心に近いからなんだろうねぇ」
「……物語の、中心に?」
彼女はそれに答えようとはしなかった。
やがて、通路の突き当たりにある、真珠貝を象ったような巨大な扉が開かれる。
そこは、天井まで届く巨大な水槽と、部屋の中心に据えられた小さな大理石のバスタブが鎮座する、静謐な聖域だった。
「アケルぅ、連れてきたよぉ。……昨日言った、あの子」
リラが親しげに声をかける。
バスタブの中から、ゆっくりと細い腕が伸びた。水飛沫が真珠のように跳ね、その中から現れたのは、童話の『人魚姫』をそのままこの世界に引きずり出してきたかのような、幻想的な存在だった。
腰から下は、深海を思わせる藍色の鱗に覆われた美しい尾鰭。
上半身は、透き通るような白い肌。
そして、全てを見透かすような、深い知性を湛えた金色の瞳。
エリダヌス連邦最強の守護神――"喰らってしまった人魚姫"、アケルナル・ヴォア=ヴォーラ、その人がそこにいた。
「……初めまして、でいいのかしら。ヴァルゴ王国の特使、ノクティア・グラスベル」
アケルナルの声は、意外なほどに落ち着いており、そして"現代的"な響きを持っていた。
彼女はバスタブの縁に身を預け、長い髪をかき上げると、私を見て微かに微笑んだ。
「驚かせてごめんなさいね。リラから聞いたわ、あなたも日本から来たんですって?」
「……っ」
私は、喉の奥まで出かかった言葉を飲み込んだ。
最強の姫。数多の船を沈め、侵略者の軍勢を一人で飲み込んだという恐ろしい怪物。
その噂とは裏腹に、目の前の彼女から感じられるのは、穏やかな午後のティータイムを過ごしているような、知的な女性の雰囲気だった。
「実はね、日本から来た"姫"って意外と少ないのよ。大抵は騎士とか、あるいはただの一般人として紛れ込むことが多いから」
アケルナルは、くすくすと悪戯っぽく笑った。その仕草は、魔法の力で世界をねじ伏せる支配者というより、気のいい先輩のようだった。
「……あなたは、いつからこちらに?」
「もう、どのくらいかしら。スマホの電波が恋しくなくなった頃には、数えるのをやめちゃったわ。……あ、でもコンビニのホットスナックの匂いは、今でもたまに夢に見るけれど」
彼女が口にした"スマホ"や"コンビニ"という単語。
そのあまりに場違いな言葉が、ここが異世界であることを一瞬忘れさせる。
私は、自分が抱いていた緊張が、少しずつ解けていくのを感じた。
「アケルはねぇ、とっても優しいんだよ。……でも、ノクティア。私の言葉を忘れないでね」
傍らでリラが、歌うような声で私の耳元に囁いた。
「君に見えてるものは、ほんの一部だけかもしれないよ。……"喰らってしまった"という名前が、どうしてついたのか。それを考えたことはあるかなぁ?」
リラの空っぽの瞳が、私を射抜く。
その言葉の意味を反芻する間もなく、アケルナルの柔らかな微笑みが、ふっと消えた。
聖域を満たしていた光が、わずかに陰る。
バスタブの中の美しい人魚は、バスタブから零れ落ちる水の音に耳を澄ませるようにして、私に問いかけた。
「ねえ、ノクティア。……あなたは考えたことがある?」
その声には、先ほどまでの気さくさが嘘のような、ひどく深い、底なしの悲しみが混じっていた。
「この世界の仕組みについて。……どうして、私たちはここに呼ばれ、そして"物語"を演じさせられているのか」
アケルナルの問いが、冷たい水のように私の胸に染み込んでいく。
硝子の宮殿に、不気味なほどの静寂が降りた。




