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62話「一難去って、鳥の声」

 晶潮館に満ちる水の音が、今は妙に大きく聞こえていた。


 ガーランド大公国の皇太子、リゲル・ヴァントが沈黙を貫き、背後のヴェルギウスがその鋭すぎる殺気を鞘に収めた。その事実だけで、会場内のパワーバランスは劇的に書き換えられたのだ。


「……なるほど。ヴァルゴ王国の主張、そしてガーランド大公国の譲歩は理解した」


 エリダヌス連邦議長が、鉄の仮面のような無表情をわずかに崩し、言葉を選びながら口を開いた。


「しかし、グラスベル特使。君の要求する"大星潮条約"の緩和は、単に王国とガーランド、周辺諸国の関係に留まる話ではない。この条約は、我が連邦における通商路の独占権と、一定の権益を保障するものだ。王国の首輪を緩めるということは、連邦がこれまで享受してきた"調整権"の放棄にも繋がりかねない」


 議長の冷徹な指摘は、これまた血も涙もない現実的な正論だった。


 王国が力を取り戻せば、連邦が握っていた"弱った国から資源を安く買い叩く権利"が失われる。彼らにとって、この条約は単なる平和維持の道具ではなく、莫大な利益を生む集金システムなのだ。


「連邦としては、この新たな提案を一度持ち帰り、内部協議にかけざるを得ない。……各国の思惑も交錯している。一度、頭を冷やす時間が必要だろう」


 議長は壇上の水時計を仰ぎ見ると、重厚な木槌(ガベル)を一度、高く響かせた。


「第一日の議事日程は、これにて終了とする。……結論は、明日の第二日目。各国の修正案を持ち寄った上で、最終決議を行う。――本日は閉廷だ」


 潮が引くように、各国特使たちが席を立ち始める。


 リゲル皇太子は、最後まで私に視線を向けることなく、ヴェルギウスを伴って風のように会場を後にした。その足取りは、敗北者のそれではなく、奪われた主導権をいかに奪還するかを冷徹に計算する、真の統治者のものだった。


「……お嬢様。まずは一勝、ってところですかい」


 ギエナが肩の力を抜き、小さく吐息をついた。その瞳には、ハッタリを完遂した興奮と、綱渡りを終えた安堵が混じっている。


「……心臓が止まるかと思ったわよ。ギエナ、あんな大博打、二度は御免だわ」


「はは、勝てば官軍ですぜ。……ほら、アルト小隊長。お前さんも、特使様の支えをしっかり頼みますぜ」


 アルトは、まだ緊張が解けないのか、礼服の袖を握りしめたまま力強く頷いた。


「ノクティア様……凄かったです。あのリゲル皇太子を、言葉だけで黙らせるなんて。……でも、明日はもっと厳しくなるんでしょうね」


 静かに頷く。あの曲者(リゲル)が、そう簡単に引き下がるとは思えない。そう考えれば、むしろ、本番は明日――。


 そう思考する私に、不満げな足音と共に一人の少女が詰め寄ってきた。


 帝国の特使、ミラクだ。彼女はバナビーを背後に従え、頬を膨らませて私を指差した。


「ちょっと! あんた、あんなデタラメみたいな秘策を隠し持ってたなんて卑怯よ! 帝国(わたし)融和案(とっておき)が、完全にかき消されちゃったじゃない!」


「卑怯って言われてもね……。こっちは文字通り、命がかかってるんだから」


「ふんっ! でも、いいわ。あんたがガーランドの鼻を明かしたのは、少しだけスカッとしたわよ。……せいぜい、明日までにそのハッタリの証拠でも用意しておくことね!」


 ミラクは最後に一度だけベロを出して見せると、バナビーに「ミラ様、はしたないですよ」と(なだ)められながら、嵐のように去っていった。……あの子も、根は悪い子ではないのだろう。


「私たちも、一度帰りましょう。明日に向けて、盤石の体勢を整えておくべきだわ」


 ギエナがニヤリと口元を歪める。この欺瞞に満ちた議場の中で、彼の狡猾な思考は、最大の道標だ。


 ひとまず今日は、一段落ということにしよう。そう考え、私たちはこの場を辞すことにした。


 いつの間にか、会場の喧騒が遠のき、晶潮館の中に満ちる水の音だけが支配的になり始めていた。


 ――そんな時、出口へと向かう私たちの前に、音もなく、一つの影が落ちた。


 そこに立っていたのはプレアデス聖教国の"姫"、リラ・マイア。


 彼女は護衛の神官たちを遠ざけ、ただ一人で、私の行く手を阻むようにして佇んでいる。


「……リラ・マイア特使」


 私がその名を呼ぶと、彼女はゆっくりと小首を傾げた。ベールの奥の空虚な瞳が、私の魂の奥底を覗き込むようにして固定される。


 ギエナが即座に私の前に出ようとし、アルトが剣の柄に手をかけた。だが、リラには戦う意志も、敵意すらも感じられない。


 ただ、そこにあるのは――圧倒的な"異質"さだった。


「……ねえ。ノクティア・グラスベル。あなたの話、とても面白かった。……特に、あの『いばら姫』の例え。この世界のどこにも、あんなお話の記録はないのに。あなたは、まるで自分の目で見てきたみたいに語るんだねぇ」


 リラの声は、狂ったオルゴールのように、不自然な高低を伴って耳に届く。


「……物語は、時に現実よりも真実を映すものです。それだけのことですよ、王女」


「いいえ。あなたは、鏡の向こう側の匂いがする」


 リラが、一歩だけ前に出た。

 会場内の温度が、劇的に下がったような気がした。


「……誰も知らない歌を歌い。誰も知らない倫理を語り。……そして、誰も知らない計算式で世界を測る。……そんな存在は、この空の下には一つしかいないはずだわ」



 ――思わず、戦慄する。



 この人は、私が"姫"であることに気が付いている――?


 彼女は、私の耳元に唇を寄せるようにして、歌うような微かな声で、この世界では決してあり得ない単語を口にした。




「――ねえ。もしかしてあなた、出身は日本?」




 どくん、と。


 心臓が、これまで経験したことのない衝撃を伴って跳ねた。


 硝子の仮面が、内側から粉々に砕け散るような錯覚。


「……何を、言っているのですか?」


 声が、震えていた。リラは私の反応を心底楽しむように、三日月のような不気味な笑みを浮かべた。


「ふふ、やっぱり。……懐かしい響きだよねぇ」


 彼女は私の動揺をよそに、ゆっくりと手を差し出した。その指先は驚くほど白く、そして冷たい。


「会わせたい人がいるんだぁ、私の、古い友達。あなたと同じ、日本人のお友達。……ねえ、一緒に来てくれる?」


 運命の歯車が、大きく音を立てて回りだした。


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