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61話「ハイエナの毒餌」

◆◇◆


 ――昨夜。


 豪奢な迎賓館"碧き人魚の館"の一室で、ギエナは不気味なほど静かに笑いながら、一枚の古い羊皮紙をテーブルに広げた。


「お嬢様、ガーランドが王国を欲しがるのは、単に勢力図が書き換わるのを恐れてるからじゃねぇんですぜ」


 ギエナの指先が、ガーランド大公国の首都を囲む、巨大な"茨"の紋章を叩く。


「口じゃ、資源がどうだの、国益がどうだのと言うでしょうがね――実際は、連中の目的は"いばら姫"を救うことにある」


「……"いばら姫"を?」


 私は聞き返した。確かそれは、ガーランドが擁する"姫"の名だ。


「そう。"絡んでしまったいばら姫"。一時は"人魚姫"と双璧を成す、強力な"姫"として知られてやしたがね。今は、"呪い"長い眠りに就き、首都を襲うものを無差別に攻撃する、無敵の防御機構と化してるらしいでさぁ」


 その話は、初めて聞いたかもしれない。


 それではまるで、童話の中と同じようだ。茨の中で眠り続ける姫は、微睡みから目覚めることがない。


「連中は国力拡大のためにも、"いばら姫"の呪いを解きてえと思ってる。ですがね、その実態は呪いなんて高尚なもんじゃねぇんですよ」


「……? 呪いじゃ、ない?」


「ええ、――単なる、"魔力不足"。王国の学者、あんたもよく知る魔法使いのポーラ様が出した結論は、それでした」


 ポーラ。まさか、ここでその名前が出てくるとは思わなかった。


 そういえば前にも言っていた。彼女は魔法を研究する学者のようなものなのだと。まさか、ここで役に立ってくるとは。


「じゃあ、"いばら姫"は極論、疲れているから眠っているだけ、ってこと?」


「詰めりゃそうなります。圧倒的な魔法力を維持するために、彼女の肉体は周囲の魔力を食い尽くし、最後には自分自身の意識まで眠らせて、消費を抑えに入った。……だが、我が王国(ヴァルゴ)には、それへの解決策がある」


「……解決策。あなたは、知ってるのよね?」


「ええ、知ってやす。教えてくれたのはお嬢様ですぜ。"星の塔"、あそこにいる"姫"は、龍脈と繋がっているって話でしょう?」


「――!」


 ギエナの言葉に、私は息を呑んだ。アルフェッカ。今の王国を支える"髪長姫"。彼女もまた、龍脈と接続することでその強大な力を維持していた。


「……土地の龍脈と接続できれば、"いばら姫"の魔力不足は解消されるってことね」


「へい。ただ、具体的にどうすりゃそれが実現できるかって話は、王都の"姫"に聞くっきゃないですがね。……とはいえ、ガーランドはその"可能性"に気づいちまってる。だから連中、必死なんです。王国をバラバラに解体して、その欠片(アーカイブ)を一つ残らず掠め取りたいのさ」


「……それを、逆手に取るのね」


「へへ。ハッタリですよ、お嬢様。俺たちは解呪方法なんて知らねぇ。だが、相手はもっと知らねぇ。……交渉ってのは、嘘を真実に変えた方が勝ちなんですぜ」



◆◇◆



 そして――現在。


 晶潮館の円卓。リゲル・ヴァント皇太子の瞳に、初めて"動揺"という名の亀裂が走ったのを、私は見逃さなかった。


「……何を、馬鹿なことを」


 リゲルは絞り出すように言ったが、その声からは先ほどまでの鉄のような冷徹さが消え失せていた。背後のヴェルギウスの殺気が、凪のように静まる。それは、相手が"斬るべき敵"から"守るべき秘密を持つ者"に変わった証拠だ。


「馬鹿なこと? いいえ、皇太子。あなたは、合理性を重んじるあまり、物語の構造を見誤っているわ」


 私はゆっくりと円卓を指先でなぞり、かつての日本で読み古した"童話"の記憶を、この世界の現実に重ね合わせた。


童話(メルヘン)における"呪い"とは、常に物語(システム)不整合(バグ)であり、同時に保護回路でもある。"いばら姫"が眠り続けているのは、単純な魔力不足だとあなたも気付いているのでしょう? 国防の核を担えるほど大きな力が、一人の存在で賄えるはずがない。故に、"眠りの呪い"という不具合が生じた」


 リゲルの碧眼が大きく見開かれる。私の"知識"に基づく指摘は、彼にとって魔術的な預言にも等しく聞こえたはずだ。


「だが、王国がこのまま解体され、エリダヌスや帝国、そしてあなた方ガーランドに割譲されればどうなるかしら? 秘術の断片は略奪の中で失われ、古い石碑は建材として打ち砕かれる。そうなれば、呪いを解く唯一の可能性(ルート)は、永遠に閉ざされるわ」


「……脅しか」


「いいえ。合理的なリスクマネジメントの提案よ。あなたが今、この場で王国の息の根を止めれば、あなた自身の望み……"姫"という戦力か、あるいは国家の象徴か、どちらにせよ"眠れる姫"を救う術は二度と手に入らない」


 私は身を乗り出し、リゲルを真っ直ぐに見据えた。


「茨の森を剣で切り開こうとしても、茨は再生するだけ。王子様がすべきなのは、姫にキスをすることでも、森を焼き払うことでもない。……城の主と契約を結び、茨に流れる"血"の経路を書き換える許可を得ることよ」


 会場に満ちていたガーランド陣営の傲慢な覇気が、目に見えて萎んでいく。


 リゲルは唇を噛み締め、震える拳をテーブルの下に隠した。彼は気づいたのだ。王国を"弱者"として切り捨てること自体が、ガーランドの未来を切り捨てることと同義であるという事実に。


「条件を提示するわ、リゲル皇太子」


 私は、ギエナとアルトの気配を背負い、最後の一撃を放った。


「"大星潮条約"における王国の緩和案に、ガーランドが賛成に回ること。それと引き換えに、私たちは"いばら姫"の呪いに関する調査の中間報告書を、大公国へ独占的に開示する用意があるわ。――もちろん、王国が"国"として存続し、"解呪法"を守れる力を持つことが前提条件だけれど」


 完全なハッタリだ。報告書なんて、まだ存在すらしていない。


 けれど、私の言葉には、この世界の住人が持ち得ない"物語への確信"が宿っていた。


「…………」


 リゲルは深く、長く、天を仰いだ。


 先ほどまで"王国切り捨て"に傾いていた連邦議長や小国たちの代表も、この劇的な力関係の逆転を前に、息を呑んで成り行きを見守っている。


 やがて、リゲルは力なく、だが重々しく告げた。


「……議長。ガーランド大公国は、現在の議案――王国の条約緩和について、無条件の否定を取り下げる。……詳細な条件の再調整を、要求する」


 勝利の音が、私の耳の中で小さく響いた。


 ガーランドという最強の"重石"が、ついに私たちの側に傾いたのだ。


 私は、テーブルの下で震える手を、アルトがそっと握ってくれたのを感じた。


「……お見事です、ノクティア様」


 隣でギエナが、人知れず極上の、そして最悪の悪党の笑みを浮かべていた。


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