60話「会議は踊る-囀る声」
私が放った"変数"という言葉が、晶潮館の冷たい空気の中に波紋のように広がった。
ガーランドの皇太子、リゲル・ヴァントは、不快そうに目を細めて私を凝視している。彼の背後に立つヴェルギウスの殺気が一段と鋭さを増すが、私の隣に立つギエナがそれを柳に風と受け流していた。
均衡が、わずかに揺らぐ。
その隙間を縫うようにして、場違いなほど"あどけない"笑い声が円卓に響いた。
「うふふ……。面白い。本当に、面白いねぇ」
声の主は、プレアデス聖教国の席に座る"姫"、リラ・マイアだった。
彼女は白いベールの下で小首を傾げ、空っぽの瞳をリゲルへと向けた。その声は、音の外れたオルゴールが奏でる旋律のように、聞く者の三半規管を微かに狂わせる。
「リゲル皇太子。あなたは"合理"という言葉をよく使うけれど……。あなたの計算尺は、少しだけ錆びついているんじゃないかなぁ? 王国の滅亡が、本当に世界を静かにすると思っているの?」
「……何が言いたい、聖教国の"小夜啼鳥"」
リゲルが忌々しげにリラを睨む。だが、彼女はそれを気にする様子もなく、白く細い指先でテーブルの上をなぞった。
「王国が消えれば、その跡地は"空白の死体"になるわ。それを切り分けるのは、きっとあなたたちガーランドと、あっちの帝国よねぇ? ……そうなれば、次は誰が誰を殺すのかしら。ねえ、セプテニア特使ぃ? 帝国は、隣に巨大な大公国ができるのを黙って見ているのかなぁ」
リラの言葉は、無邪気なふりをして、会場に潜む疑心暗鬼を鮮やかに引きずり出した。
名指しされた帝国の特使、ミラクが、ハッとしたように顔を上げた。
「それは……! 帝国は、今回のサミットで不毛な領土拡大を望んでいるわけではありません!」
ミラクは意を決したように立ち上がり、純白のドレスを翻して周囲を見渡した。
「リゲル皇太子、あなたの論理はあまりに排他的よ。王国を切り捨てるのではなく、むしろ各国が手を取り合い、この条約を"共生の指針"に書き換えるべきだわ! 帝国も、王国も、そしてガーランドも、技術と資源を分かち合う……そんな未来を構築するべきだわ!」
ミラクの言葉は、理想に満ちていた。
昨日、レストランで我儘を言っていた少女とは思えないほど、その瞳には高潔な光が宿っている。彼女は彼女なりに、祖父セプテニア公から託された"帝国の未来"を守ろうと必死なのだ。
しかし。
その"理想"は、この血生臭い円卓ではあまりに脆すぎた。
「――話にならんな」
リゲルが、吐き捨てるように言った。
「侵略国の一端が、融和を説くか。ミラク・シュピーゲル=セプテニア。偉大なる祖父の名が泣いているぞ。帝国の急進派が水面下で何を企んでいるかも知らず、お花畑の夢想に耽るとはな」
「なっ……! 私は、真剣に――」
「黙れ。貴様が語る"融和"など、自国の再軍備が整うまでの時間稼ぎにしか聞こえん。議長、これ以上の空論は時間の無駄だ。提案した通り、王国の管理権分配の採決に移ろう」
リゲルの一喝により、ミラクの言葉は無慈悲に踏みにじられた。
彼女は唇を噛み締め、悔しさに顔を赤く染めて椅子に沈み込んだ。背後のバナビーが、いたましげに彼女の肩に手を置くのが見える。
会場の空気は、再びリゲルの支配下へと戻ろうとしていた。
プレアデスのリラは、混沌を十分に楽しんだかのように、また窓の外の魚を眺めるふりをしている。
ミラクが提示した"融和"という光。
リゲルが提示した"選別"という鉄。
そのどちらもが、今のヴァルゴ王国を救う手立てにはなり得ない。
(……今だわ。ギエナ)
私は隣のギエナと、わずかに視線を交わした。
彼は満足げに口角を上げると、一歩下がり、私に舞台を譲った。
アルトもまた、無言のまま、私の背後に確かな壁として立ち続けている。
「――リゲル皇太子。先ほど、あなたは王国の管理権を分かち合うと言いましたね」
私は、震える声を鋼の意志で押さえつけ、静寂の中に楔を打ち込んだ。
再び、全方位からの視線が私に集まる。リゲルが、虫でも見るかのような冷淡な目で私を見た。
「まだ何かあるのか。無意味な命乞いなら、場所を変えてやるがいい」
「いいえ。命乞いではありません。……むしろ、あなたへの"忠告"です」
私は、懐から一枚の古びた、だが重厚な紋章が刻まれた書状を取り出した。
それはギエナが、エリダヌスの地下深く、人魚たちの古い記録庫から"釣り上げてきた"――ガーランド大公国が、闇に葬ったはずの、ある"事実"に関する記録だ。
「あなたが欲しているのは、王国の領土ではない。……王国が隠し持っている、"ガーランドの茨を解く鍵"……。そうではないですか?」
その瞬間。
リゲルの顔から、先ほどまでの余裕が一切消え失せた。
碧眼が針のように鋭くなり、背後のヴェルギウスが、物理的な衝撃を伴うほどの殺気を剥き出しにする。
「……何を知っている。ヴァルゴの端くれが」
「あなたが王国を切り捨て、その管理権を手中に収めたい本当の理由。……それが、自国の"いばら姫"の呪いを解くために、王国のどこかにある禁忌の果実を欲しているからだとしたら?」
会場に、戦慄が走った。
連邦議長が目を見開き、プレアデスのリラが、初めて彷徨わせていた視線を水槽からこちらへと向けた。
「私たちが提示するのは、緩和の要求だけではありません。……ガーランドの誇りを守るか、あるいは、その呪われた歴史をここで暴かれるか。その選択肢を、今ここに持ってきたのです」
私は、ギエナから授かった最高の"毒餌"を、円卓のど真ん中に放り投げた。
「さあ、皇太子。計算尺を叩き直す時間は、まだ残っていますよ?」
沈黙。
晶潮館の水の音が、妙に大きく、不気味に響き渡っていた。




