58話「開幕-前途多難」
フォーマルハウトの朝は、運河から立ち上る真っ白な霧と共に明けた。
だが、その幻想的な美しさとは裏腹に、街には昨夜までの喧騒を押し殺したような、重苦しい静寂が満ちている。都の各所に配置された人魚兵たちの槍が、朝日を反射して冷たく光っていた。
「……行くわよ。準備はいい?」
私は鏡の前で、最後の一息を吐いた。
纏ったのは、王国の伝統的な意匠を現代的にアレンジした、深い碧の礼装。その胸元には、硝子細工のブローチが鈍く輝いている。
振り返れば、そこには見違えるような"騎士"の姿があった。
「は、はい。……正直、この服、肩が凝って仕方ないんですが」
慣れない礼服に身を包んだアルトが、所在なげに襟元を弄っている。ノクティアが昨夜、半ば強引に仕立て上げさせたそれは、彼の若々しさと、右目の眼帯が持つ凄みを不思議なほど引き立てていた。
その背後には、不敵な笑みを崩さないギエナと、大きな欠伸を噛み殺しながらも、野生の鋭い眼光を隠しきれないシャウルが控えている。
「いい面構えだ。……さあ、お嬢様。化かし合いの会場へ、ご案内いたしやしょう」
ギエナの案内で、私たちは馬車に乗り込む。向かうは、この水都の心臓とも言える場所だ。
首脳会議の舞台となる、運河の最奥にそびえ立つ連邦の至宝『晶潮館』。
天井まで届く巨大な硝子の柱の中を、絶え間なく海水が循環し、その中を色鮮やかな魚たちが泳ぐ。鉄骨の梁と精緻な大理石が融合したその空間は、連邦の富と技術、そして海への敬意を象徴していた。
会場の中心には、巨大な円卓が据えられている。
私たちが足を踏み入れた瞬間、既に席に着いていた各国の視線が、一斉にこちらを射抜いた。
「ヴァルゴ王国、全権特使ノクティア・グラスベル。……お席へ」
議長席に座る、鉄の仮面を被ったかのような厳格な顔つきの男――エリダヌス連邦議長が、事務的に告げる。
その左手には、ガーランド大公国の旗が翻っていた。
黄金の椅子に深く腰掛け、退屈そうに指を組んでいる青年。リゲル・ヴァント皇太子。彼は私たちが視界に入っても、一瞥をくれただけで、すぐに興味を失ったように目を逸らした。
だが、彼の背後に立つ男――ヴェルギウス・クラインから放たれる圧倒的な威圧感は、呼吸をすることさえ困難にさせるほど鋭い。
その向かい。白いベールを纏い、一切の生命感を感じさせない集団。
そして、その先頭に座るのが、恐らく、プレアデス聖教国の"姫"、リラ・マイア。彼女は小首を傾げ、空っぽの瞳でこちらを見つめている。彼女が瞬きをするたび、会場の温度が数度下がるような錯覚に陥った。
(……この中に、私が割って入るっていうの?)
心臓が早鐘を打つ。足が震えそうになるのを、背後に立つ仲間たちの確かな気配が支えてくれた。
そして、最後の一角。
フォルナクス帝国の席に、その少女はいた。
一分の隙もない、雪のような白のドレス。完璧に整えられたプラチナブロンド。
昨夜、市場のレストランでウェイターに毒づいていた、あの我儘な少女。
彼女は周囲の視線を一身に浴びながら、帝国の誇りを体現するかのように、優雅に、かつ不遜に椅子に座っていた。
視線が、交差する。
少女――ミラク・シュピーゲル=セプテニアは、私の顔を認めた瞬間、その完璧な"特使の顔"を僅かに崩した。
「……え、あ、あんた!?」
指を差し、思わずといった様子で声を上げるミラク。
私もまた、硝子の仮面を半分ほど落として、絶句した。
「……あら。あなたこそ、あんなクレーマーみたいな真似をしておいて、帝国の代表だったのね」
「なっ、なんですって!? クレーマーとは失礼ね! 私は正当な権利を主張しただけよ!」
サミット開始直前の重苦しい空気が、一瞬にして別の意味で凍りついた。
背後に控えていたバナビーが、観念したように肩をすくめ、慈しみ深い、だがどこか楽しげな微笑みを浮かべる。
「おやおや。だから申し上げたのですぞ、ミラ様。あのような言い争いをして、もし相手が他国の要人であったら、後で気まずい思いをされますよ、と」
「……バナビー、今は黙ってて! っていうか、そうよ! あんな大声で一般客の前で突っかかってくる奴が、要人なわけないじゃない! どっかの売れない劇団員か何かだと思ったわよ!」
「売れない劇団員!? あなた、それ、王国の予算が少ないことへの嫌味かしら?」
額に青筋を浮かべて言い返す私と、顔を真っ赤にして身を乗り出すミラク。
そんな二人の"場違いな再会"を、ガーランドのリゲル皇太子が心底呆れたような、軽蔑の混じった視線で見据えていた。
「……やれやれ。帝国の"姫"と王国の"特使"が、揃いも揃ってこの程度の知性か。これでは、わざわざこの水の都まで足を運んだ甲斐がないな。ヴェルギウス、やはりこの会議に実りはないようだ」
冷徹なリゲルの声が、会場の火種を鎮火させるように響く。
私はその言葉で、ハッと我に返った。
いけない。これは、私個人とミラクの喧嘩ではない。王国の、何万人という民の命運がかかった場なのだ。
私はドレスの裾を整え、ゆっくりと腰を下ろした。
ミラクもまた、バナビーに耳元で何かを囁かれ、不承不承といった様子で口を閉じ、不満げに視線を逸らした。
「……出鼻を挫かれたわね」
隣でシャウルが「あはは、お嬢様、顔が真っ赤っすよ」と耳打ちしてくるのを、足元で踏みつける。
「――静粛に。各国の代表が出揃ったようだ」
連邦議長の重厚な声と共に、壇上の巨大な水時計が時を告げる。
晶潮館に満ちる水の音さえも、これからの「言葉の殺し合い」を静かに見守っているかのようだった。
「これより、第二十二回"大星潮首脳会議"を開幕する。最初の議題は――ヴァルゴ王国による"大星潮条約"の条件緩和要求についてだ」
運命の円卓が、静かに回り始めた。
私は、テーブルの下で震える手を、仲間たちの視線という目に見えない盾で包み込み、正面を見据えた。




