57話「水都に迫る影」
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水都フォーマルハウトの血管とも言える運河の底は、地上よりも遥かに雄弁だ。
人魚兵のラーナは、真珠色の鱗を月光に鈍く光らせながら、議場近くの水路を緩やかに巡回していた。
明日はいよいよ、各国の特使が揃う"大星潮首脳会議"だ。この、フォーマルハウトの心臓部に、それぞれの国の"顔"が揃うことになる。
故に、警備も平時の比ではないほどに厚くなる。このエリダヌス連邦が国際会議の会場に選ばれている理由は、"大星潮条約"の存在以上に、その警備の厳しさによるものでもあった。
水の密度、微かな温度の変化、そして運河を伝う振動。人魚にしか感知し得ない繊細な感覚。それらは、今夜の都が、いつになく"濁っている"ことをラーナに告げていた。
都は表面的には華やかな静寂を保っている。しかし、水中に混じる無数の吐息や船のスクリュー音、そして地上の喧騒が、複雑に絡み合い、ラーナの鰓を不快に震わせていた。
(……嫌な予感がするわね)
ラーナは槍を握り直し、水面に顔を出して周囲を伺った。
議場の建物は、人魚たちの王たる"姫"アケルナルの魔力によって守護されている。万が一の事態が起きようとも、この海域最強の守護者がいる限り、都が揺らぐことはない。連邦の衛兵たちは誰もがそう信じていたし、それはこれまでの歴史に裏打ちされた事実でもある。
ラーナもまた、その矜持を糧に職務を全うしてきた。きっと、今回の会議も何事もなく、平穏無事に終わるのだろうと――。
「……ん? あれは……」
だが、ふと視線を落とした先。
議場の土台を支える石組みの隙間に、何かが挟まっているのが見えた。
それは、夜の暗い水底で、不気味なまでに透き通った光を放っている。
「これは……鏡の破片?」
そう。まるで、手鏡の割れた一欠片のようなそれは、何故か明かりも差し込まぬはずの水底で煌めいている。
人魚兵――その全てが"姫"たるアケルナルから力を受けた存在だ。故に、彼女は気が付いた。それが、何らかの魔法の力を帯びたものだと。
(どうして、こんなものがここに――?)
屈み込み、その光る物体に手を伸ばそうとした、その時だった。
コツン、と。
硬いものが石畳を叩く、乾いた音が響いた。
ラーナが反射的に顔を上げると、彼女の足元に、一つの小さな塊が転がってきていた。
それは、掌に収まるほどの大きさの、真っ白な卵だった。
(卵……!? 一体、どこから……!)
一瞬の戸惑いが、彼女の動きを鈍らせた。
突如、その白い卵が、内側から膨れ上がるような不気味な脈動を刻み――次の瞬間、目も眩むような閃光と共に、激しく弾けた。
「――っ!?」
爆風がラーナの視界を奪い、鋭い破片が彼女の真珠色の鱗を切り裂く。
体勢を崩し、苦悶の声すら上げられない彼女の背後に、影が一つ、音もなく"落ちてきた"。
冷たい腕が、彼女の首を後ろから羽交い締めにし、自由を奪う。
「――何を、貴様、離せ……っ!」
抵抗するが、体に力が入らない。先ほどの爆発が、相応のダメージを残しているのだろう。振り払うことが、できない。
激痛に霞む視界の中で、ラーナは己の口の中に、無理やり"何か"を押し込まれるのを感じた。
「あーあ、見ーちゃった。見ーちゃった。見ちゃいけないもの、見ーちゃった」
耳元で囁かれたのは、無邪気な子供が遊びに興じているような、あまりに場違いな声だった。
それでも、ラーナは必死に抗おうとしたが、口の中にねじ込まれた"卵"が、異様な熱を発し始める。
それは喉の奥で、粘り気のある魔力を撒き散らしながら、急速に肥大化していく。逃げ場のない爆発的な圧力が、彼女の喉を、胸を、そして内臓を内側から破壊し、膨張させていった。
「あ……がっ、ぁ……」
人魚の美しい喉から漏れたのは、言葉にならない断末魔の気泡だった。
爆裂。
内側から肉体を食い破る非道な暴力が、ラーナの意識を闇へと引き摺り込む。
崩れ落ちる彼女の瞳に、最期に焼き付いたのは、月の光を背負って立つ四つの人影だった。
一人は、重厚な漆黒の外套を纏い、山のような巨躯を揺らす大男。
一人は、指先に銀色の糸を絡ませ、獲物を値踏みするように見つめる細身の男。
一人は、先ほどラーナを仕留めた、塀の上で不安定に揺れる不気味な少年。
そして、その中央。
その異形の怪物たちを従えるように立っていたのは、フリルとレースで飾られた、血のような赤と黒のロリータ服を纏う、一人の可憐な少女だった。
彼女の胸元には、黒く塗り潰された帝国の徽章が冷たく光っている。
少女は死にゆく衛兵を見下ろし、まるで退屈な劇の終わりを告げるように、小さな唇を歪めて微笑んだ。
「……お掃除完了。さあ、始めましょう」
少女の細い指が、議場を指し示す。
フォーマルハウトの美しい夜景の裏側で、暗い澱が、今、都を完全に呑み込もうとしていた。
人魚兵の絶命した運河には、ただ、粉々に砕けた卵の殻だけが、雪のように白く浮いていた――。
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