4話「鏡の中の面影」
辺境伯たちとの"勉強会"を終え、私は宛てがわれた自室へと戻っていた。
重厚な扉が閉まる音が、まるで牢獄の入り口のように響く。
私はドレスの裾も気にせず、天蓋付きのベッドに背中から倒れ込んだ。
滑らかなシーツが体を包み込んでくれるが、心の芯に空いた穴までは埋めてくれない。
「……期待外れ、か」
天井を見上げながら、ポツリと漏らす。
父――グラスベル辺境伯の、あの冷めきった目。
怒りでも、悲しみでもない。ただ"使えない道具"だと判断されたのだろう。元の世界でも幾度となく浴びせられた、侮蔑と軽視の目。
当然だ。
私は貴族令嬢のノクティアじゃない。他の国で兵器のように恐れられている"姫"としても振る舞えない。魔法も使えない、剣も握れない、ただの女子高生。
命を懸けて呼び出されたのがこんな"ハズレ"だなんて、笑い話にもならない。
「……別に、いいけど」
どうせ、私はこの世界の人間じゃない。
この国がどうなろうと、戦争で誰が死のうと、私には関係ないはずだ。
それよりも、考えなければならないことは他にある。あの後、ちはるはどうなったのか、元の世界に戻ることはできるのか。
探すために、もう少しだけここにいて――その後は、逃げてしまおうか。貴族令嬢だというのなら、それなりの路銀を持ち出すこともできるだろう。
何もかもから逃げて、自分のためだけに動く。そう、ドライに割り切ってしまうのかベストなはずだ。
それなのに。
胸の奥がチリチリと痛むのは、なぜだろう。
「――お嬢様?」
不意に、控えめな声が掛かった。
驚いて体を起こすと、いつの間にか部屋に入ってきていたのか、先ほどのメイド服の少女――確か、名前はスピカだったか。彼女が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
手には湯気の立つティーセットが乗ったお盆を持っている。
「あ……ごめんなさい、ノック、気づかなくて」
「いえ、私が勝手に入ってしまったので……。お顔色が優れませんが、旦那様とのお話、何かありましたか?」
スピカは慣れた手付きでサイドテーブルにお茶を用意しながら、私に微笑みかける。
その笑顔には、一点の曇りもない。
心から主を慕い、心配している。そんな純粋な好意の塊だった。
それが、今の私には酷く痛い。
私は視線を逸らし、膝を抱えた。
「……スピカ、だっけ」
「はい! お嬢様の専属侍女、スピカ・シューエです! ……って、まさか私の名前も忘れちゃいました?」
「うん、ごめん。……ねえ、スピカ。貴方は、ノクティアの――ううん、記憶を失くす前の私、好きだった?」
私の問いに、彼女はきょとんと目を丸くし、それから破顔した。
「好きも何も! 私はお嬢様に拾っていただいた身ですから。お嬢様は私の命の恩人で、世界で一番大切な方ですよ」
迷いのない言葉。
彼女は、目の前にいる"私"に、その言葉を向けている。
でも、ここにいるのはノクティアじゃない。彼女の命を奪って成り代わった、星河こはる。
偽物で、空っぽの"姫君"だ。
「……そっか」
私はまた、奪ったのか。
妹との約束を守れず、母さんを一人にし、今度はこの子から"一番大切な人"を奪って、のうのうと生きている。
なんて滑稽で、残酷なんだろう。
「お嬢様?」
沈黙した私を不審に思ったのか、スピカがそっと顔を近づけてくる。
大きな瞳。心配そうに揺れる視線。
その表情が、ふと、記憶の中の誰かと重なった。
『おねえちゃん、だいじょうぶ?』
――ちはる。
あの日、炎の中で私を見上げていた、最期の妹の顔。
違う、と頭ではわかっているのに。無防備なほどの純粋さと、私を信じ切っている瞳が、どうしても重なってしまう。
もし。
もし、このまま私が「関係ない」と逃げ出したら。
戦争が始まって、"姫"とかいう化け物たちがここまで攻め込んできたら。
この子はどうなる?
ノクティアを守れなかったこの子は、きっと戦火の中で、あの日の妹と同じように――。
「……っ」
想像しただけで、吐き気がした。
嫌だ。それだけは、嫌だ。
国のためなんてどうでもいい。他人の体を乗っ取った責任なんて高尚なことも言えない。
でも、目の前で妹のような子が死ぬのを、また黙って見ているなんて。
それだけは、死んでも御免だ。
「――お嬢様、やはりお加減が? もしよろしければ、少し気分転換になさいますか?」
私の顔は、どうやら深刻な色になっているらしい。それを気遣ってか、スピカがおずおずと提案してくる。
「気分転換?」
「はい。実は今日、街の方で市場が開かれているんです。ずっとお部屋に籠もりきりでしたし、少し外の空気を吸えば、記憶の方も何か思い出すかもしれませんし!」
彼女なりの、精一杯の気遣いなのだろう。
私は一度、深呼吸をして、自分の頬を両手で叩いた。
ウジウジ悩んでいても、結末は変わらない。
何ができるかはわからないけれど、少なくとも、この子が笑っていられる時間を、少しでも長く守らなきゃいけない。
「……そうね。行こうか、スピカ」
私はベッドから降りる。
鏡に映るシルバーブロンドの少女は、まだ頼りなさげだったけれど。
その瞳にだけは、小さな火が灯っていた。




