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56話「フォーマルハウトの夜」

◆◇◆


 水都フォーマルハウトの夜は、静止した銀細工のように美しい。


 運河を渡る風は熱を帯びた喧騒を浚い、水面に落ちた灯火だけが、明日の激動を予感させるように揺らめいている。


 そんな、揺らぎの一つ。運河の中心に鎮座する、浮遊楼閣。ガーランド大公国の宿舎。


 その最上階、重厚な鉄の装飾が施されたバルコニーに、一人の青年が立っていた。


「いい夜だ、まこと、いい夜だ。そうは思わんか」


 ガーランド大公国皇太子、リゲル・ヴァント。


 窓ガラスに映る己の姿は、神が精魂込めて象った彫像のように完璧だった。流れるような金髪、知性を湛えた碧眼、そして何不自由ない権力と名誉。彼は、望むもの全てを手に入れた男だった。


 だが、その瞳には、手にした栄光を愛でるような温もりはない。


 リゲルは手に持っていたクリスタルグラスを傾け、琥珀色の液体越しに、対岸に沈む王国の宿舎を冷淡に見下ろした。


「富、名誉、家柄、力……。凡百の人間が一生をかけて追い求めるものは、全てこの手の中にある」


 リゲルは、独り言ちる。その声は低く、どこか退屈を紛らわせるような響きがあった。


「だが、それだけでは足りない。世界は、あまりに雑音に満ちている。なあ、そうだろう、ヴェルギウス」


 ガーランドが誇る、人類の到達点――ヴェルギウス・クライン。鋼のような肉体を漆黒の甲冑に包んだ男は、主の問いに、声ではなく重厚な殺気のみで応えた。


「この世は、我の思うままよ。醜いものは要らん、ましてや、旧時代の勝利にいつまでもしがみつく、死に損ないなどな」


 リゲルはグラスを一気に煽ると、そのまま指を離した。

 落下したグラスが階下の水面に衝突し、甲高い音を立てて砕け散る。


「明日、王国の息の根を止めるぞ。我らがいずれ手にする世に、無様な敗北者は必要無い」



◆◇◆




◆◇◆


 所変わって、そこはフォーマルハウトの運河の中でも、最も深く広い区画。


 その一角に、一隻の船が停泊している。船とは言えど、巨大な装甲艦を改装した、ホテルのような宿泊施設だ。


 "皇立迎賓館(カイザーリヒ・ハウス)"と呼ばれるそこは、見た目こそ無骨な戦艦だが、内部は最高級の絨毯とシャンデリアが輝く超一流の空間である。


 入り口を固めるのは、黒い重装歩兵たち。彼らは皆、人魚兵たちとは違う、独特な威圧感を放っていた。


 そんな、威容の船の中には――先ほどの傲慢な静寂とは対照的な、慌ただしい空気が流れていた。



「ちょっと! この襟元、まだ一ミリ浮いているわ! やり直しなさい!」



 つい数時間前に、ノクティアと言い争いをした少女、ミラ――ミラク・シュピーゲル=セプテニアは、苛立ちを隠さずに鏡の前で地団駄を踏んでいた。


 彼女の周囲では、数人の針子が震えながらドレスの微調整を繰り返している。その背後で、老紳士バナビーが懐中時計を確認し、静かに進言する。


「ミラ様。明日は"本番"でございます。これ以上の無理は、当日の顔色に障りますよ。早くお休みになられては」


「うるさいわ、バナビー! 妥協なんてできない。……私は、完璧な『ミラク』としてそこに立たなきゃいけないのよ」


 針子たちを下がらせると、ミラは鏡の中の自分をじっと見つめた。


 白い肌、整った目鼻立ち。その中身は、異世界から転移してきた"姫"の魂だ。本来の孫娘の魂を下敷きにするようにして顕現した、いわば侵略者。


(……私は、偽物。この姿も、名前も、全部借り物)


 ミラの脳裏に、帝国で待つ一人の老人の姿が浮かぶ。


 外交官としての地位を退き、今は静養しているはずのセプテニア公爵。彼は、中身が入れ替わってしまった自分を、正体を知りながらも"本当の孫"のように慈しみ、この世界での生き方を説いてくれた。


「いいえ、やり遂げるのよ。……おじい様が信じてくれた、帝国の未来を。あの方が愛してくれたこの身体に、泥を塗るわけにはいかないわ」


 鏡の中のミラが、鋭い決意を宿して微笑む。


 それはレストランで見せた我儘な少女の顔ではなく、帝国の存亡を背負う、一人の誇り高き特使の顔だった。



◆◇◆




◆◇◆


 フォーマルハウトの最果て、古びた礼拝堂を改装したプレアデス聖教国の宿。


 そこには、鉄の匂いも、虚栄の香りも届かない。ただ、立ち込める香炉の煙と、冷たい夜気だけが支配していた。


 月光が差し込む窓辺で、一人の少女が小鳥と戯れていた。


 プレアデスの"姫"、リラ・マイア。


 彼女が白く細い指を伸ばすと、一羽の灰色の小鳥が、まるで魅入られたようにその指に止まった。


「……ねえ。明日は、どんな歌が聞こえるかなぁ」


 リラの声は、音の狂ったオルゴールのように、微かに音程が外れていた。歌うように、囁くように響くその声に、部屋の隅に控えていたローブ姿の特使が問いかける。


「何か、面白いことでもあったのですか? リラ様」


「うん。聞こえるよぉ……。水底で泡が弾ける音。誰かが硝子を叩き割る音。……これから起こるんだぁ。たぶん、明日くらいからかなぁ」


 リラが微笑むと、指の上の小鳥が突然、苦しげに羽をばたつかせた。


 だが、リラはそれを気にする様子もなく、ただ愛おしげに小鳥を撫で続ける。彼女の瞳には、現世の利益も、国家の繁栄も映っていない。


「楽しみぃ。……鏡の向こう側から、誰が落ちてくるのかなぁ」


 彼女の不気味な歌声が、静かな礼拝堂に木霊する。

 


◆◇◆


 フォーマルハウトの夜が、終わりを告げようとしていた。


 それぞれの野心、祈り、そして絶望を孕んだまま、運命の円卓が回り始めるまで、あと数時間。


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