55話「嵐の前、盤前にて」
フォーマルハウトの夜風を切り裂き、私たちは宿舎"碧き人魚の館"へと戻ってきた。
豪奢なエントランスを抜け、特使専用の最上階へと足を踏み入れる。そこでは既に、連邦の役人との"前哨戦"を終えたギエナが、ソファに深く腰掛け、毒々しいほど赤い葡萄酒を煽っていた。
「おや……お早いお帰りだ。それに、随分と面白い"掘り出し物"を拾ってきたもんですね」
ギエナの眼光が、私の背後でガチガチに緊張している少年に向けられた。
アルトだ。彼は、かつての上官であるギエナを前に、資材袋を抱えたまま見事な直立不動の姿勢をとっている。
「き、帰還しました、ギエナ隊長! レグルス砦、修繕資材調達任務の途上ですが、ノクティア様の命により一時同行させていただきます!」
「はっは、固てぇよ、アルト小隊長。今の俺はただの護衛だ。それに、そんな汚ねぇ格好で特使の横に並ぶつもりか? お嬢様を泥棒の親分に見せたいんなら止めねぇが」
「うっ、そ、それは今から服を買いに行く予定で……」
ギエナはニヤニヤと笑いながら、アルトの埃っぽい作業着と、私が握りしめている"服屋のカタログ"を交互に見た。
「なるほど、お嬢様の"着せ替え人形"に志願したわけだ。災難だったな。お嬢様のセンスは独特だぞ、下手をするとフリル地獄だ」
「ギエナ! 失礼なこと言わないで。……フリルよりは、レースの方が好きよね?」
「災難には変わりねえよ!」
叫ぶアルトをからかいつつ、私が部屋の端に目を向けると、そこには既に戦闘不能(食い倒れ)状態のシャウルが転がっていた。
「……むにゃ……もう食えねぇっす……。アルト様ぁ、その資材袋の中に……干し肉……隠してないっすか……?」
満腹で膨らんだ腹を天に向け、満足げに寝転ぶ、あまりにも無様な姿がそこにあった。彼女にとって、この水の都の夜は今のところ"美食の楽園"以外の何物でもないらしい。
「あー……。とにかく、アルトは明日から私たちの"顔"の一人になるんだから。ギエナ、もうイジるのはそのくらいにして、本題に入りましょう」
私がそう促すと、ギエナはグラスをテーブルに置き、その場に漂っていた緩い空気を一瞬で霧散させた。
「――そうですね。お遊びはここまでにしやしょう。アルト殿もそこに座りな。お前も、明日からは王国の命運を測る道具の一つになる」
ギエナがテーブルの上に一枚の海図を広げた。そこにはエリダヌス連邦を中心に、帝国、王国、そして大公国の位置関係が不穏な記号と共に記されている。
「まず、明日からのサミット。集まるのは王国の首を絞める"大星潮条約"の利権者どもと、その周りを飛ぶハエどもです。連邦側が用意した資料と、おじさんの裏工作で掴んだ情報を統合すると、顔ぶれはこうなるでしょう」
ギエナが指差したのは、まず北方の強国、ガーランド大公国だった。
「ガーランドは、擁する"いばら姫"が呪いで城から動けねぇ。代わりに来るのは、現大公の息子、リゲル・ヴァント皇太子でしょう。若いが、その頭脳はそこらの老いぼれ外交官よりずっと回る。冷酷で合理的。……そして、その影には必ず、あの男がいる」
「……"人類の到達点"、ヴェルギウス・クラインですね」
アルトが緊張した面持ちで言葉を継いだ。
「……ヴェルギウス? ギエナ、あなたも知ってるの?」
「ええ。"姫"の魔法もなんのその、ただの剣技だけで"姫"すら捻り潰す化け物です。あいつが背後に立っているだけで、交渉の席は常にガーランドの剣先を突きつけられているのと同義になる」
そんな怪物がいるのか、と、思わず私は眉を寄せた。
アンタレスとの戦い。屈強な兵士たちが、一人残らず溶け落ちていったあの悪夢を見た後では、流石に誇張なのではないかと、そう思いたいものだが……。
次にギエナが指を滑らせたのは、私たちの宿敵、フォルナクス帝国の版図だった。
「帝国は、表向きは外交担当の老骨、セプテニア公爵が来ると予想されていた。だが、あの爺さんはもう耄碌しかけてる。恐らく、その後継者が代理で来るでしょうね」
「帝国が……交渉? あいつら、力でねじ伏せることしか考えていないんじゃないの?」
私の問いに、ギエナは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「お嬢様、帝国も一枚岩じゃねぇんですよ。全員が全員、世界を焼き尽くしてぇって軍部ばかりじゃない。他国と共存して富を肥やしてぇっていう"穏健派"も一定数いる。……でなきゃ、このフォーマルハウトに帝国の最新技術が流れてる説明がつかねぇ」
「商売敵を育てることで、軍部の暴走を牽制しているってこと?」
「明察。だが、今回の急進派の動きは早すぎる。穏健派がどこまで手綱を握れているかが鍵になりますねぇ」
最後にギエナの指が止まったのは、地図の端、深い霧に包まれたような領域。プレアデス聖教国。
「ここは完全に未知数ですがね、噂じゃ今回のサミットには教国側も"姫"を寄越すらしい」
「プレアデスの姫……」
「異名は"帰らなかった小夜啼鳥"。エリダヌスの"人魚姫"と比べりゃ表舞台に出ることは少ねぇですが、その魔法の特異性は連邦の計算尺さえ狂わせると言われてる。読めねぇ上に、宗教が絡む。一番厄介な相手になるかもしれねぇですね」
ギエナの説明を聞き、室内には重苦しい沈黙が降りた。
ガーランドの武力、帝国の内部抗争、プレアデスの神秘。そのどれもが、今のヴァルゴ王国よりも遥かに巨大で、強固な壁に見えた。
「私たちの目的は、あくまで"大星潮条約"の条件緩和……。王国の首にかけられた、この不当な首輪を緩めさせることよね」
私は、自分が首に下げている見えない鎖を感じるような心地で言った。
条約が緩和されれば、王国は物資の輸入制限から解放され、軍備と民生を立て直すことができる。それは、王国が再び帝国や連邦と対等に渡り合うための、唯一の希望だ。
「ああ、ですがね、お嬢様。それを最も嫌うのは、他ならぬガーランド大公国だと思いやすよ」
ギエナが低い声で断じた。
「あいつらは権威主義の塊だ。王国が力を取り戻し、国家間の勢力図が書き換わることを恐れている。特に皇太子のリゲルは、現状の"弱い王国"を維持することが、自国の安全保障に直結すると考えているはずでしょうから」
「帝国はどう動くと思う?」
「奴らは反対しねぇと思います。むしろ、王国が少しばかり息を吹き返して、軍部――急進派の注意を逸らしてくれることを望んでいる節がある。プレアデスは……あいつらは元々、この条約の縛りを"俗世の瑣事"としか思っちゃいねぇですから。自分たちの聖域が守られるなら、王国の首輪がどうなろうと知ったこっちゃないでしょう」
つまり、最大の障壁はガーランド。
そして、その背後には最強の"壁"であるヴェルギウスが控えている。
「ガーランドを説得しなきゃならない。でも、彼らにとってもメリットがないと、首は縦に振らないわよね。……武力も富もない今の私たちに、何ができるっていうの?」
私は、チェスの詰みを見つめるような絶望感を覚えた。
だが、ギエナはゆっくりと立ち上がり、窓の外、煌々と光るフォーマルハウトの夜景を見据えた。
「お嬢様。商談ってのは、持っているものを売るだけじゃない。"相手が持っていないもの"を欲しがらせることも、立派な戦略ですぜ」
ギエナがニヤリと、悪党のような笑みを浮かべた。
彼はそのまま、私とアルトに手招きをし、声を潜めた。
「おじさんがこれまで、エリダヌスの汚ねぇ水路を這いずり回って温めてきた"秘策"がありやす。……ガーランドの皇太子に、"どうしても欲しい"と思わせるための毒餌がね」
ギエナが語り始めたその策の内容に、私は思わず目を見開いた。
それは、正攻法では絶対に思いつかない、極めて危うく、それでいて完璧な"逆転の策"だった。
「……ギエナ。それ、本気で言ってるの?」
「本気ですよ。……ただし、これを使うには、お嬢様にしかできねえ、"最後の一押し"が必要になる。……覚悟はいいですかい?」
夜のフォーマルハウトに、遠くで人魚たちの歌声が響く。
サミット開始まで、残り数時間。
私は、自らの硝子の心臓が、これまでになく激しく、かつ静かに鳴り響くのを感じていた。




