53話「怒号と再会」
運河の揺らぎがテラスに反射し、心地よい夜風が頬を撫でる。
案内されたのは、活気に満ちたレストランの隅の席だった。周囲では商談を終えた商人たちが笑い声を上げ、出来立ての料理の香りが食欲をそそる。
「お嬢様、この肉、毒が入ってるかもしれないっす! ここは冷静沈着な従者の私が、命を懸けて毒見を……」
「……はいはい。フォークを置きなさい、シャウル。私の前菜にまで手を伸ばさないの」
狙い済ましたように私の皿へ伸びてきたシャウルの手を、ぴしゃりと叩く。
この狼少女は、危機管理という名目で自分の食欲を満たすことに余念がない。叩かれた手をさすりながら「ちぇーっ」と不満げに頬を膨らませるが、自分の皿に届いた鴨のローストを一口食べた瞬間に、その表情は蕩けるような至福に染まった。
ずっと、そうしていれば可愛いのに。その言葉を飲み込んで、私もまた、自分の皿に手を伸ばそうとした。
――それが聞こえてきたのは、そんな瞬間だった。
「――全く。何なの、このワインの組み合わせは! 信じられないわ!」
一息つこうとした私の耳に、鋭く、それでいて鈴を振るような高い声が突き刺さった。
数席離れた窓際の特等席。そこに座る少女が、困り果てた様子の若いウェイターを指差して声を荒らげている。
「この繊細な白身魚のポワレに、どうしてこんな重たい赤を合わせようとするの? 味覚が麻痺しているのかしら。それに見て、このリンゴの鮮度! 皮の輝きが足りないわ。私を誰だと思っているの?」
ベール越しに目を向けると、そこには透き通るような白い肌を持つ少女が座っていた。
豪華な白のドレスに身を包み、背後に控える初老の紳士は、まるで彫像のように動かず彼女の不平を聞き流している。
(……何あの子。お姫様ごっこでもしてるのかしら)
最初は、運の悪いことに我儘な令嬢の近くに座ってしまっただけだ、と無視するつもりだった。
だが、少女の暴言は止まらない。ウェイターは震えながら謝罪し、料理を下げようとしているが、少女はフォークを置くことさえせず、「美学がないわ」「怠慢よ」と、働く人間を否定する言葉を並べ立てる。
――カチリ、と。
私の中で、かつての記憶が不快な音を立てて繋がった。
現代日本での居酒屋バイト。忙しいピーク時に、難癖をつけてはスタッフを追い詰めて楽しむ、質の悪い客。あの時の理不尽な怒りが、時を超えて再燃する。
「なんだかうるさいっすねえ。ご飯くらい、静かに食べればいいのに」
口いっぱいに詰め込んだシャウルは、気にも留めていない様子だった。
ああ、私もそうできたならよかったのに。
「……いい? シャウル。この世には、滅ぼさなきゃいけないものがあるの」
「急に、どうしたんすか……?」
「それは、度を過ぎたカスハラ。自分を神か何かと勘違いするクソ客は、天罰が下らなきゃいけないの」
「……お嬢様、カスハラってなんすか? 目、怖いっすよ……?」
彼女の制止も耳に入らなかった。
私は椅子を引き、音を立てて立ち上がると、迷いなくその"白い少女"のテーブルへと歩み寄った。
「ちょっと。さっきから聞いていれば、随分な言い草じゃない」
少女と、背後の紳士が同時に私を見た。紳士の瞳には一瞬だけ鋭い光が宿ったが、少女はただ、珍しい生き物でも見るかのように目を丸くしている。
「あら、何かしら? 野良犬が私の晩餐に口を挟むなんて」
「野良犬で結構。でもね、料理に文句があるなら、黙って店を出なさい。ここはあなたの家の食堂じゃないの。一生懸命働いている人を、自分の機嫌取りの道具にするのは二流のすることよ」
「なっ……二流!? この私に向かって!」
少女――白いドレスに身を包んだ、見た目だけなら可憐なその子は、椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
「……ミラ様、流石に、その辺りで」
大きな物音に、脇に控えていた老紳士が、諌めるように手を伸ばす。しかし、"ミラ"と呼ばれた少女は、それに耳を貸す様子もない。
「いい? お金を払うのは私よ! 完璧なサービスを求めるのは当然の権利でしょう?」
「お金を払えば神様にでもなれると思っているの? 笑わせないで。あなたはただ、他人が作った料理を食べているだけの、口うるさい子供よ。そんなに完璧を求めるなら、自分で市場へ行って、いつまでも最高のリンゴとやらを選んでなさい」
「このっ……生意気な! バナビー、この無礼な女を今すぐ――」
「お止めなさい、ミラ様」
紳士――バナビーと呼ばれた老人が、静かだが鋼のような重みのある声で少女を制した。彼は私を一瞥し、その硝子の瞳の奥を覗き込むような視線を向けた後、微かに口角を上げた。
「……申し訳ありません、お嬢様。彼女は少々、食事にはうるさいものでして」
「バナビー! あなたまで何を言っているの!」
ミラが真っ赤になって地団駄を踏む。どこのご令嬢かは知らないが、その様子は、ただただプライドが高いだけの、扱いにくい少女そのものだった。
「ふん。……シャウル、行きましょう。せっかくの食事が不味くなるわ」
私は最後の一撃を放ち、踵を返した。
背後で「待ちなさい! 名前を聞かせなさいよ!」という叫び声が響いたが、無視してテラスを抜ける。
怒りで火照った顔に、夜風が心地よい。
だが、その喧騒を聞きつけ、それなりの野次馬が集まってきてしまっているようだった。
明日から、王国の代表として振る舞わなければいけないのに、これはマズいことをしたかもしれない。顔を隠して、そのまま逃げるように立ち去ろうとしたところで――。
「――え?」
群衆の中に見つけた、見慣れた顔に、思わず足が止まる。
顔の右半分を覆う火傷と、それを隠す、黒い眼帯。
オールバックにした髪は、まだあどけなさの残る顔には合っていないような気もするが、初めて会った時に比べれば、幾分、堂に入ったような気もする。
「……アルト? やっぱり、アルトじゃない!」
そこには、資材袋を肩に担ぎ、驚愕に目を見開いた青年――アルトが立っていた。




