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52話「歓楽、遊覧、暫時の暇」

 連邦が用意した特使用の宿舎"碧き人魚の館"は、フォーマルハウトでも一、二を争う一等地に建っていた。


 運河に面した大理石造りの五階建て。テラスからは、夜の帳が下り始め、無数のガス灯が水面に溶け出す幻想的な光景が一望できる。


「……やりすぎね。嫌味なくらいだわ」


 通された部屋の豪奢さに、私は溜息を吐いた。


 天蓋付きのベッドにはシルクのシーツが敷かれ、隅々まで磨き上げられた真鍮の配管からは、捻るだけで心地よい温度の温水が溢れ出す。

 

 帝国製、機械仕掛けのヒーターが室内を一定の温度に保ち、壁に嵌め込まれた発光石は、ろうそくの火よりも遥かに安定した光を放っていた。


 かつて、日本という国で暮らしていた私にとって、それは"当たり前"の利便性に過ぎない。けれど、この世界で生きる私には、それが毒のように感じられた。


 ヴァルゴの王城にすら、ここまで高価な品々は並んでいなかった。王国が連邦に差し出してきた"命の対価"が、ここでは壁を飾る無意味な絵画や、贅沢な調度品に変わっている。


「お嬢様、荷解きは終わったっすよ。……ギエナ様は、連邦の役人と明日のスケジュールの最終確認っす。飯は適当に外で食ってこいって言われたっす」


 シャウルが、使い古された銀貨を指先で弄びながら言った。彼女の鼻は、この贅を尽くした部屋の香料の匂いに、どこか居心地が悪そうにひくついている。


「そうね。……少し、歩きましょう。この街の"本当の匂い"を知っておかないと、明日の会議で足元を掬われるわ」


 私は華美なドレスを脱ぎ捨て、動きやすいが品位を損なわない、深い紺色の外出着に着替えた。顔には薄いベールを纏い、髪を纏める。これだけで、一見すればどこかの裕福な商人の娘にしか見えないはずだ。


 宿を出て運河沿いの大通りに踏み出すと、フォーマルハウトは昼間とは違う、妖艶な熱気に包まれていた。


 水面に浮かぶ色とりどりの提灯。運河を行き交うゴンドラからは楽しげな歌声が響く。だが、その喧騒の隙間に、私は奇妙な"影"を見た。


 まず一つ目の影は、市場の裏通り、崩れかけた高いレンガ塀の上にいた。


 外灯の光も届かぬ場所で、ふらふらと不安定に足を投げ出し、座り込んでいる少年の姿。彼は手元の生卵のようなものを、まるで宝物のように弄んでいた。


(……落ちそう)


 そう思った瞬間、少年と目が合った。


 狂気すら感じさせる無垢な笑顔。彼は塀の端で危ういバランスを保ちながら、私に向かって優雅に一瞥をくれると、そのまま闇の中へ"落ちる"ように姿を消した。


「……シャウル。今の」


「嫌な匂いっす。割れた卵と、火薬と……何より、何かが壊れる直前みたいな、不吉な匂いっす」


 シャウルが牙を剥き、低く唸る。その少年の居た場所には、もう何の痕跡も残っていなかった。


 二つ目の影は、広場の中央、人混みがそこだけぽっかりと割れた場所にあった。


 汚れ一つない、真っ白なローブを纏った集団が、音もなく歩いている。彼らは無機質な白い面を被り、互いに一言も交わさない。


 喧騒の中にありながら、彼らの周囲だけが深い森の奥のような静寂に包まれていた。


「……あれは?」


「プレアデスの連中っすね。……あいつら、生きてる匂いがしねえっす。無味無臭。まるで、精巧に作られた人形が歩いてるみたいっすよ」


「プレアデスって……プレアデス聖教国のことよね。帝国や連邦に比べると、あまり派手に動いてはいない印象だけれど」


「そうっすね、でも、気味の悪い連中っす。たぶん、価値観が王国や連邦――普通の国とは、違うっすから」


 シャウルの声色からは、強い警戒の気配がした。


 彼女は今までに、何を見てきたのだろうか。爛漫な振る舞いの端々に見える闇は、この水の都まで来ても、見通せはしない。 


 そして三つ目の影。それは運河の最も目立つ場所に、不遜なまでの威容で浮かんでいた。


 鉄の装飾と、これ見よがしな黄金の装飾で埋め尽くされた巨大な浮遊楼閣。帝国の技術を惜しげもなく注ぎ込み、連邦の富を形にしたようなその建造物には、鋭い茨を象った軍旗が掲げられている。


「? あれ、何かしら。もしかして、雑技団(サーカス)でも出ているの?」


「そんなに楽しいもんじゃないっすよ。たぶん、ガーランド大公国の宿舎っす。……"棘無き皇太子(ニードレス)"なんて呼ばれてる割に、あそこから漂ってくるのは、血と鉄を煮詰めたような攻撃的な匂いっす」


 血と鉄を煮詰めたよう、という表現は、あまりにも毒々しい。


 しかし、それもわかるような気がした。遠目に見るだけでもわかるほどの傲慢さが、形を成して屹立している。


 厄介なのは、どうやら連邦や帝国だけではなさそうだった。


「……嫌になっちゃうわね、ほんと」


 見えない火花が散るような夜のフォーマルハウトを歩き続け、私たちは少し喧騒から離れた一画に辿り着いた。


「お嬢様、そろそろ飯にするっす。あそこの店、繁盛してるみたいだし、匂いも悪くないっすよ」


 シャウルが指差したのは、運河にせり出したテラス席を持つ、少し賑やかなレストランだった。


 高級店ではあるが、先ほど見たような首脳陣が使うような嫌味な場所ではない。地元の裕福な商人たちが、声高に商談を交わしているような、生気に満ちた場所だ。


「そうね。……ここでいいわ」


 私は、そこでようやく一息を吐いた。本番は明日からなのだ。食事を摂る時にまで気を張っていては、先に心が擦り切れてしまう。


 少し、肩の力を抜こう。そんな風に考えながら、私は賑やかな店内へと足を踏み入れた。


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