51話「水の都、フォーマルハウト」
視界を埋め尽くしたのは、迷路のように張り巡らされた美しい運河の網目だった。
水都"フォーマルハウト"。
かつての物語に登場したベネチアを彷彿とさせるその街は、陽光を反射する輝かしい水面と、長い歴史を感じさせる大理石の建築物に彩られている。
だが、その優美な景観を切り裂くように、街の至る所から黒い煙が立ち上り、不気味な鉄の咆哮が響き渡っていた。
「……綺麗な街ね。けれど、あの鉄の塔や煙突は、どこか浮いて見えるわ」
「へっ、そりゃそうでしょうよ。あの無骨な"鉄と蒸気"は、元を辿れば帝国の十八番ですからね」
甲板で隣に立つギエナが、鼻を鳴らしながら運河の先を指差した。
優雅に水面を滑る小舟に混じって、帝国の紋章を削り取ったような無骨な蒸気船が、水飛沫を上げて通り過ぎていく。
「連邦の連中は強かですよ。帝国にへこへこ頭を下げて技術協力を仰いだかと思えば、その裏で王国から巻き上げた金を使って、独自の改良を加えちまう。……水の都とは名ばかり、その中身は帝国の牙を移植した巨大な商船ですぜ」
ギエナの言葉通り、そこにあるのは純粋な文明の発展ではなかった。
複数の国と強かに渡り合い、敵対する帝国の技術すらも商売の種として取り込む、商人の執念が生み出した歪な繁栄だ。
潮の香りに混じって漂うのは、石炭が焼ける焦げた匂い。連邦はこの美しい水の都を、世界中の富と技術を吸い上げるための"巨大な胃袋"へと変貌させていた。
船が接岸されると、すぐに、私たちを何者かが取り囲んだ。
恐らくは、街へ入ってくる者を監視している、査察官か何かだろう――そう、顔を上げて、思わずギョッとする。
私たちを取り込んでいたのは――少なくとも、人間ではなかった。一瞬、人間の女性のようにも見えたのだが、目を凝らすまでもなく、全身が真珠のような鱗で覆われた、異形の存在だと気が付く。
首と頭の接合部あたりには、鰓のような深い溝があり、パクパクと開閉を繰り返している。槍を手にした指の間は水掻きのように皮膚が繋がっており、その先には鋭い爪が光っている。
「――"人魚"っすね。この国の、防衛の大半を担う、"姫"の力で生み出された亜人種っすよ」
忌々しげに、シャウルが口にする。
"人魚"は、一人ではない。少なくとも私たちを囲む、4〜5人全員がそうだった。
この国の"人魚姫"は、こんな存在を、複数体生み出せるというのか。見る限り、彼女らは普通の人間と変わらないというのに。
彼女たちの瞳は、連邦の精神を象徴するかのように、計算高く冷徹だ。私の驚愕さえも、容易く見抜いているかのように、そう、こちらを射抜こうとしてくる。
「ヴァルゴ王国、全権特使ノクティア・グラスベル様。お待ちしておりました。さあ、入都手続きを始めましょう」
人魚の査察官は、歓迎の言葉ではなく、まるで商品の真贋を確かめるような事務的な口調で告げた。
「……オークション? 聞き間違えかしら。買い物をしにきたつもりはないのだけれど」
「ええ、我々も、未だあなたに売るものはございません。価値の不明な、あなたには」
まるで、機械音声のように、人魚は何の感慨もなさげに口にする。
恐らく、彼女たちの持つ計算尺は、他国の技術を精密に分析し、自国の利益へと変換するための武器。ここでは、王国の歴史も私の血筋も、提示できる"価値"がなければ紙屑同然に扱われる。
「……随分な扱いっすね。お嬢様は一国の代表なんすよ?」
シャウルの不愉快そうな声も、人魚たちは"ノイズ"として聞き流す。
「ここでは、権威も称号も変数に過ぎません。我々が知りたいのは、あなたがこの街にどれだけの利益をもたらすか、それだけです」
「……そう、わかったわ。」
私はゆっくりと息を吐き、人魚の査察官が掲げる冷たい計算尺を、真っ直ぐに見つめ返した。
日中である今は魔法を使えない。だが、この街が"商人"の論理で動いているのなら、提示すべきは"神秘"ではなく"実利"だ。
「価値が不明、か。……商人を自負するなら、目に見える数字だけで計算するのは二流よ。あなたたちが喉から手が出るほど欲しがっている"帝国の最新技術"への対抗策。その情報の市場価値、あなたの尺度で測れるのかしら?」
査察官の指先が、微かに止まった。
私は畳みかけるように、ギエナから聞いた帝国の不穏な動きと、現代的な"情報の希少性"を織り交ぜてハッタリをぶつける。
「私は先日、帝国の特殊装備を纏った部隊を撃退したわ。……その弱点と実戦データ。連邦が帝国に一歩長じるための"鍵"を、私は持っている。これが、変数としての私の価値よ」
嘘ではない。実際に戦った経験は、技術を"買う"ことしかできない連邦にとって、何物にも代えがたい"商品"だ。
査察官は計算尺をカチカチと素早く動かし、隣の人魚と何事か、超音波のような鋭い声で言葉を交わした。
「……照合中。帝国軍の新型装備に関する噂は、連邦情報局の予測と一致。実戦データは未収得。……処理中。ノクティア・グラスベル。あなたの存在を"不明な変数"から"戦略的投資対象"へと格上げします」
査察官がそう宣言した瞬間、周囲を囲んでいた人魚たちが、まるで精密な機械が噛み合うように一斉に槍を引き、道を空けた。
「数値の変動を確認しました。入都を許可します。……良い取引を、特使殿。我々の議長は、高くつく商品を好みますから」
歓迎ではなく、あくまで"利益が見込める商品"への敬意。
私は内心の安堵を"硝子の仮面"の裏に隠し、堂々と一歩を踏み出した。
馬車に乗り込み、宿舎へと向かう道中、私は窓の外を流れる景色に戦慄した。
王国の村々が飢え、人々が明日をも知れぬ生活を送っている裏で、この街は帝国から得た技術と王国から奪った富を掛け合わせ、贅沢という名の怪物を育てている。
商店には、王国では王族しか口にできないような果実が、安価な嗜好品として並んでいる。
(……連邦は、誰も信じていないのね)
帝国の技術を使いながら帝国を警戒し、王国の富を吸いながら王国を見下す。
この強かな商人たちに、私は"協力"という名のハッタリを売らなければならない。
悲しみよりも先に、腹の底から焼け付くような怒りがこみ上げてきた。
そんな中――ふと、活気に溢れる資材置き場の角に立つ、少年の後ろ姿が目に留まった。
(……アルト?)
心臓が跳ねた。
レグルス砦で別れた、あの真っ直ぐな瞳の少年。
だが、馬車は無情にも速度を上げ、その姿はすぐに鉄と蒸気の煙の中へと消えていった。
「お嬢様? どうかしましたかい」
「……いいえ。見間違いかもしれないわ」
私は窓を閉め、革張りのシートに深く身を沈めた。




