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50話「濁った銀貨と船出の刻」

 昨夜の騒乱が嘘のように、王都の朝は白々と、そしてどこまでも静かに明けた。


 王城の回廊に飛び散った硝子の破片はすべて片付けられ、壁に刻まれた剣戟の跡すらも、手際よく修復されている。


 まるで、あの真夜中の死闘そのものが最初からなかったことのように。


 だが、人々の記憶までは消し去れなかった。


 出発を前に城内を歩く私に向ける視線は、明らかに変わっていた。以前のような"得体の知れない怪物を見る目"ではない。そこには、圧倒的な力に裏打ちされた"守護者"への畏怖、あるいは期待が混ざり始めている。


「……皮肉なものね」


 私は、特使としての正装を整えながら独り言ちた。


 "怪物"であることを証明するために放たれた刺客を退けたことで、逆に私が"聖性(ひょうばん)"を手に入れる。物語の筋書きとしては皮肉が効きすぎている。


 しかし、私の心は晴れなかった。


「お嬢様、準備が整いやしたぜ。……浮かない顔して、昨夜の祝杯が足りませんでしたかい?」


 壁に寄りかかり、手癖悪く装飾剣を弄んでいたギエナが声をかけてきた。


「ギエナ、一つ聞いていいかしら。昨夜の彼ら……帝国の対姫装甲を纏った刺客たちは、どうしてあんなに深く、城内に侵入できたのだと思う?」


 ギエナは表情を変えず、ただ鼻を鳴らした。


「そいつぁ、簡単な話でさぁ。ネズミを招き入れたのは、外の猫じゃねぇ。家の中に住み着いたネズミたちですよ」


「じゃあ、つまり、昨日の刺客たちを放ったのは……」


「そう……"反姫派"。王を頂点とするこの国の秩序が、あんたというイレギュラーによって書き換えられるのを恐れる、臆病で欲深い連中でさぁ」


 ギエナの分析は冷徹だった。外部の敵よりも、内側の腐敗。


 帝国製の装備を調達し、近衛の目を潜り抜けさせ、標的に引き合わせる。それが可能なのは、王の側にいる人間をおいて他にいない。


「今後も、あいつらは邪魔をしてくるでしょう。あんたがエリダヌスで成果を上げれば上げるほど、その首を刈ろうと血眼になる」


 王都を出る前から、背中にナイフを突きつけられているような感覚。


 そして私の懸念は、もう一点、より身近なところにあった。


「シャウル、ちょっといいかしら」


 荷物を馬車に積み込んでいたシャウルを呼び止める。彼女は「なんすか、お嬢様」と、いつも通りの気だるげな表情で振り返った。


「これから長旅になるわ。エリダヌスに入れば、王国の通貨は使いにくくなるかもしれない。今のうちに、市の方で自分が必要なものを買ってきなさい」


 そう言って、私は彼女に小銭の入った革袋を渡した。


「ラッキーっす。おこぼれ万歳っすね」


 そう、シャウルが袋を受け取ったその瞬間、彼女の掌から零れ落ちそうになった一枚の銀貨を、私は見逃さなかった。


 それは、グラスベル領で発行されたものでも、この王都で流通している正規の通貨でもない。


 鈍く濁った光を放つ、どこか不気味な紋章が刻まれた銀貨。


 一体彼女は、それをどこで受け取ったのだろうか。


(……やっぱり、そうよね)


 脳裏に、昨夜の彼女の動きが蘇る。


 戦闘訓練を受けていた、という言葉だけでは到底説明がつかない、淀みのない身のこなし。不意打ちを察知し、迷わずに武器を無力化する手際は、侍女のそれではない。


「……シャウル。あなた、本当に――」


 問いかけようとして、言葉が詰まった。


 昨夜、彼女は間違いなく私の命を救った。あの瞬間、彼女が動かなければ、私は今ここに立っていない。

 


「……お嬢様?」



 シャウルが、眠たげな目を瞬かせて私を見つめている。その瞳には、嘘を見抜く鋭さとは別に、どこか不安定な揺らぎが見えた。


「……いいえ、なんでもないわ。忘れ物だけはしないようにね」


「了解っす。適当に美味いもんでも買い込んでくるっすよ」


 ひらひらと手を振って、シャウルが人混みへと消えていく。その背中を見つめる私の肩を、ギエナの手がポン、と叩いた。


「いいんですかい、行かせて」


「……気づいていたのね」


「おじさんの目は、腐っても戦場を見てきたもんでね。……お嬢様、今は味方が必要だ。それも、一人でも多く。あの嬢ちゃんの"嘘を嗅ぎ分ける鼻"は、海の上じゃあ、魔法よりも役に立つはずですぜ」


 ギエナは空を仰ぎ、独り言のように続けた。


「信じやしょう。腹にイチモツ抱えてるにしても、昨夜あんたを守った手は、本物だった。……疑いながら信じる。そいつが、おじさん流の付き合い方でさぁ」


 私は深く息を吸い、疑念を心の奥底に押し込んだ。


 いつか、彼女が自ら、あの"濁った銀貨"の正体を話してくれる日が来るだろうか。それとも、その銀貨が刃に変わり、私の喉元に突きつけられる日が先に来るのだろうか。


 悩むうちに、時間は過ぎた。覚悟が決まり、シャウルは買い物から帰ってくる。そうして、ようやくすべての準備が整った。


 午後。


 王都ヴァルゴの巨大な西門が、私たちのために開かれた。


 豪華な装飾が施された特使専用の馬車。それを取り囲む護衛の兵たちは、セファス王から直接ノクティアに預けられた精鋭だ。


 門をくぐる直前、私は一度だけ振り返り、王城の背後にそびえ立つ"星の塔"を見上げた。


 窓は見えない。けれど、あの銀色の髪をたゆわせた隠者は、きっと今もこの出発を観測している。


(……行ってくるわ、アルフェッカ)


 王国という『幸福な王子』の心臓を守るため。


 理不尽という名の魔女に、交渉という名のハッタリを叩きつけるために。


「お嬢様、いい加減前を向きなせえ。ここから先は、潮の香りがキツくなりやすぜ」


 御者台からギエナが声をかける。


 馬車が動き出す。

 蹄の音が、石畳をリズミカルに叩き始めた。


 王都を、そして昨日までの自分を置き去りにして。


 硝子の姫を乗せた馬車は、荒野を抜け、青い絶望が待つ海へと向かって、力強く走り出した。


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