3話「世界の形は戦火の中に」
重厚なオーク材の机の上に、一枚の羊皮紙が広げられていた。
描かれているのは、この大陸の地図だ。
私たちは、場所をグラスベル伯の書斎に移していた。壁一面の本棚と、使い込まれた机。そこで私たちがやらなければいけないのは――"勉強会"だった。
何も知らない、無知な私に、少しでもこの世界の情勢を理解させなければならない。その姿勢にはどこか、焦りのようなものがある気がした。
「うむ、ノクティア。それでは、これを見てくれ」
そう、羊皮紙を指し示されるが、私には首を傾げることしかできない。
インクで引かれた無数の線や、要所要所に置かれた駒。それが何を意味するのか、軍事的な詳細は私にはさっぱりわからない。
けれど、ただ一つ。
素人目に見てもわかることは――"どうしようもなく詰んでいる"ということ。それだけは、直感的に理解できた。
「お父さ……グラスベル伯。この、東側にある黒い領域。これは?」
恐る恐る尋ねると、正面に座る父――アトラス・ラウド=グラスベル辺境伯は、苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「……"お父様"でよい。娘を演じてもらうのに、他人行儀では露見しかねん」
「わ、わかりました。それじゃあ、お父様、改めて、これは……?」
「……"フォルナクス帝国"。数年前までは山脈の向こうにいたはずが、今や我が国の防衛線を食い破り、このグラスベル領の目前まで迫っている」
私は地図の上で視線を滑らせる。
私たちがいるこの国、"ヴァルゴ王国"は、大陸の中央から西に広がる大国だ。
父の説明によれば、かつては大陸の覇者だったらしい。けれど、今の地図上のヴァルゴは、東から伸びる黒い矢印――フォルナクスに喉元を突きつけられ、縮こまっているようにしか見えない。
「……素朴な疑問なんですけど。この国って、でっかい国なんですよね? なんでこんな一方的に押されてるんですか?」
「技術と、時代の差だ」
父は重々しく告げた。
「フォルナクスという言葉は、古代語で"炉"のことを示す。連中は鉄と炎の国だ。独自の製鉄技術を発展させ、蒸気で動く機械すら戦場に持ち込んでいるという。対する我が国は、未だに騎士の槍と誇りが主力だ」
「……ああ、なるほど」
私は納得すると同時に、背筋が寒くなった。
それはつまり、私のいる世界に例えると、産業革命を終えた近代軍隊と、中世の騎士団が戦っているようなものだ。
勝てるわけがない。
"三匹の子豚"で言えば、こちらは"藁の家"で、相手はブルドーザーに乗った狼だ。息を吹きかけるまでもなく、基礎からひっくり返される。
「それに、奴らには決定的な切り札がある」
父が、地図上の最前線――私たちのいる場所のすぐ近くを、指で叩いた。
「"姫"だ。帝国は、少なくとも三人の"姫"を擁しているが、そのうちの一人が前線に出てきた」
「……それが、私を呼んだ理由」
「そうだ、連中は単騎で要塞を陥落させる化け物だ。奴を止められるのは、同じ理を持つ"姫"しかいない」
"姫"。
先程から幾度となく出ているその呼称が、絶望の代名詞であるかのように、重く響く。
私は逃げ道を、いや、希望を探すように地図の他の部分へ目を向けた。
「他国の介入は、望めないのですか? 例えば、この南の海にある国とか……」
広大な海洋を支配する、"エリダヌス連邦"。
あるいは北の森にある、"ガーランド大公国"。
これだけの危機なら、同盟とか、協力とかがあってもいいはずだ。
「無理だね」
答えたのは、傍らに控えていた魔法使いのポーラだった。
「エリダヌスは海上の利益にしか興味がないし、ガーランドは茨の結界に引きこもって数百年、外に出てきたことがない。西の"プレアデス聖教国"に至っては、この戦争を金儲けの機会としか見ていないだろうさ」
ポーラは肩をすくめ、かつて帝国の隣にあったという小さな空白地帯を指差した。
「以前に滅ぼされた小国、"トリアングルム"の二の舞になりたくなければ、我々は独力で生き残るしかないのさ」
四面楚歌。いや、孤立無援か。
父、グラスベル伯が、縋るような目を私に向けた。
「だからこそ、きみを呼んだのだ。ノクティアの命を代償にしてまで」
その視線の重さに、私は息を呑む。
「……買い被りすぎですよ、私に、何ができるって言うんですか」
軍事も、政治も、たぶん、この戦争のために必要なことなど、何一つとしてわからない。
ただの女子高生だった私に、この国を守れというのか。
「"姫"には、"魔法"の力が宿ると言われている」
グラスベル伯は、私の隣に立つポーラを指差しながら、さらに続ける。
「そこにいるポーラ。彼女は自分を魔法使いだなどと嘯いているが、実際には使えん。"魔法"とは、太古の昔に失われてしまった技術なのだ」
「……うへ、手厳しいね、こりゃ」
ポーラが舌を出した。真面目な話の最中でも、彼女は軽薄な調子のままだ。
「彼女もほとんど、占い師や考古学者のようなものだ。とにかく、"魔法"とはそういうもので、この世界にはもう、存在しえないものだ」
「それを、私が使える……と?」
「ああ、各国が保有する戦力としての"姫"、彼女らは皆、超常の力を持っている。てっきり、きみもそうだと思っていたのだが……」
「……ごめんなさい。私には――」
そんなもの、ない。
私はただの、火災で逃げ遅れて死んでしまった、馬鹿な高校生だ。
魔法なんて奇跡、持っているはずがない。
私の告白に、書斎は重苦しい沈黙に包まれた。
グラスベル伯は、私を責めなかった。怒鳴りもしなかった。
ただ、興味を失ったように、ふいと視線を逸らしただけだった。
「――そうか」
短く、それだけが吐き捨てられた。
その一言に含まれた感情の温度は、氷点下のように冷たかった。
彼は、もはや私を見ていない。その目は再び机上の地図へと戻され、私の存在など初めからなかったかのように、インクの線をなぞり始めた。
「……ポーラ。彼女を部屋へ戻せ」
「おや、もうお話は終わりかい? せっかくだし、お茶でも――」
「終わりだ。無駄な時間を過ごしている暇はない。私は……次の策を練らねばならん」
次の策。
それはつまり、"姫"という作戦が失敗したと判断されたということだ。
父の背中は、雄弁に語っていた。
『娘の命を賭した博打は、外れたのだ』と。
私は唇を噛み締め、逃げるようにその背中に一礼する。
部屋を出る間際、振り返った彼の横顔は、老いた獅子のように疲れ切って見えた。




